里見浩太朗がたどる、自分のルーツへの旅
俳優の里見浩太朗が、自分の父と母の人生をたどり直す回でした。舞台になったのは、昭和の戦争の時代と、その中を生きた家族の物語です。
番組ファミリーヒストリーは、有名人の先祖や家族の歴史を、資料と取材でたどっていくドキュメンタリーです。本人も知らなかった事実が明らかになり、「自分はどこから来たのか」を考えさせてくれます。
今回のテーマは、戦地で命を落とした父の真実と、その後を生き抜いた母の覚悟でした。画面には、古い写真、軍の記録、親戚の証言が次々と登場し、ひとつの家族史が少しずつ組み立てられていきます。
井出駅に残された1枚の写真と赤ん坊の正体
物語の入り口になったのが、昭和12年12月28日に撮影された1枚の写真です。場所は、山梨県のJR身延線の井出駅。南部町井出にある小さな無人駅で、今も富士から身延方面へ向かうローカル線の駅として使われています。
写真には、戦死した軍人の遺骨が列車で帰ってきて、それを村人総出で出迎える様子が写っていました。列車の前には、多くの村人が整列し、兵隊の柩を見守っています。
そして、その人々の中に、ひとりの赤ん坊がいました。戦死した軍人の妻の母におぶわれている、その赤ん坊こそが、のちの俳優・里見浩太朗でした。小さな背中に、戦争の現実と、家族の悲しみが、無言のまま重なっている写真です。
山梨・南部町に広がる佐野家一族のルーツ
里見浩太朗の本名は佐野邦俊。父のふるさとは、山梨県の南部町にある集落で、そこには今も佐野姓の家が多く残っています。
番組では、郷土史を研究する佐野辰巳さんが登場し、佐野家のルーツを紹介しました。佐野家は、戦国時代までさかのぼる家系で、初代の佐野光次は、甲斐の戦国大名・武田信虎に仕えた武将だったと伝わっています。
祖父の佐野勝三郎は、農業や林業に加え、塩の販売なども手がけていました。当時、塩は国の専売品で、販売を任されるには、ある程度の信用や資産が必要でした。親戚がハワイに出稼ぎに行く際、その保証人になった書類には、勝三郎の資産が千円と記されており、今の貨幣価値にするとおよそ2千万円に相当すると紹介されます。地方の農村としては、かなり豊かな家だったことがわかります。
優等生だった父・佐野亀一と憲兵への道
そんな家に、明治37年の元日に生まれたのが、父の佐野亀一でした。小学校時代の記録には、成績優秀な児童に贈られる証書が残されていて、勉強熱心で頭の良い少年だったことがわかります。
その後、亀一は軍に入り、やがて憲兵になります。憲兵は、軍内部の取り締まりや治安維持を担う役職で、当時は軍人の中でも特に厳格で、選抜された人が就く仕事でした。法律知識や判断力が求められ、一般の兵隊よりも高い教養が必要とされていました。
親戚の証言では、亀一は真面目で責任感の強い人物として記憶されています。めいにあたる佐野うめのさんは、宿題を見てもらった思い出を語り、家族からも頼りにされる存在だったことが伝わってきます。
パン屋で出会った母・エツとの恋と結婚
物語の色合いが少し変わるのが、父と母の出会いのパートです。亀一は、憲兵として東京で勤務していたころ、路地裏にあるパン屋を訪ねます。そこで目にしたのが、美しい店員の木伏エツでした。
エツのおいにあたる木伏功さんは、「スタイルも良いし、美人のほうだった」と当時の印象を語ります。亀一は一目で心を奪われ、パン屋に通うようになります。憲兵という立場でありながら、素朴な恋心を抱いて足しげく通う姿が目に浮かぶようです。
しかし、エツの両親は、この交際に反対しました。軍人であることへの不安や、生活の安定への心配もあったのでしょう。それでも2人は気持ちを貫き、昭和6年4月、神田明神で質素な結婚式を挙げます。亀一29歳、エツ20歳。これが、のちに俳優の母と父となる2人のスタートでした。
里見浩太朗自身は「パン屋に勤めていたなんて初めて知った」「微笑ましいおやじとおふくろが想像できる」と語り、厳しい戦争の話とはまた違う、温かい家庭の始まりが浮かび上がりました。
日中戦争の勃発と天津から届いた2通の手紙
昭和12年7月、日中戦争が始まります。憲兵だった亀一にも、中国で治安維持にあたる任務が下されました。出発の朝、亀一は妻に「手紙を書く」と約束し、その姿を当時5歳だった娘の要さんは今も覚えていると語ります。
7月28日、亀一は中国の天津に到着します。しかし、着いて早々、部隊はいきなり戦闘に巻き込まれ、緊急出動を余儀なくされました。戦いがひとまず落ち着いた4日後、彼は約束どおり妻に手紙を書きます。そこには、家族への思いやりと、「自分のことより家族の生活が心配だ」という本音が丁寧な言葉で綴られていました。
その後、部隊は前線へ進軍します。8月中旬、家族のもとに2通目の手紙が届きます。しかし、それを最後に、亀一からの便りは途絶えてしまいます。戦争期には、多くの兵士が似た状況に置かれ、家族は「最後の手紙」を大切に抱きしめて生きることになりました。
山西省・小寨村の崖上で起きた待ち伏せと父の最期
2通目の手紙が出されたとされる9月25日、亀一の部隊は中国の山西省を北から南へ進んでいました。山西省は山地が多い地域で、当時の戦闘でも、崖や谷を活かした待ち伏せがたびたび行われていました。
番組では、軍事史の資料などをもとに、亀一の部隊が山西省の小寨村近くの崖の下を進んでいた時、崖の上で待ち構えていた中国軍の猛攻撃を受けたことが紹介されます。これは、実際の戦史資料でも、八路軍(中国共産党軍)が日本軍に行った待ち伏せ攻撃として記録されています。
崖の上からの銃撃と手榴弾。圧倒的に不利な地形の中、亀一の部隊は大きな被害を受けました。その中で、亀一は弾丸を受けて倒れながらも、軍刀を抜いて前へ進もうとし、やがて手榴弾を受けて壮絶な最期を遂げたと記されています。
里見浩太朗は、画面でその説明を聞きながら、しばらく言葉を失います。そして、「戦争によって2人の愛が引き裂かれたのが悔しい」と、静かに語りました。
戦死報告と報告書が食い違った理由
昭和12年10月4日、自宅にいた母・エツのもとに、夫の戦死を知らせる電報が届きます。その後、新聞にも「敵を前に自ら命を絶った」というような勇ましい最期の姿が書かれました。
しかし、しばらくして届いた軍からの正式な報告書には、新聞とは少し違う記述がありました。弾丸に倒れ、なお敵に向かっていった末の戦死。戦史研究では、死亡報告書や新聞記事が、遺族を慰めるために英雄的な表現へと脚色されることが少なくないと指摘されています。
番組は、「どちらが本当か」というよりも、激しい戦場の中で命を落としたこと、そして、その背景には、家族を守ろうとした父の覚悟があったことを丁寧に伝えていました。
故郷の山梨に帰ってきた亀一の遺骨は、井出駅で村人たちに出迎えられ、葬儀が行われました。その様子を覚えている佐野うめのさんは、気丈に振る舞っていたエツの姿が忘れられないと語ります。
母・エツが背負った覚悟と、息子への厳しさ
夫を戦争で亡くした後、佐野エツは、子どもたちを女手ひとつで育てていくことになります。番組の証言からは、彼女がとても厳しく、そして強い人だったことが伝わってきました。
昭和30年代、里見浩太朗は映画会社に所属し、時代劇映画で人気を集めます。収入が増え、生活が派手になっていったころ、母はそんな息子を容赦なく叱りつけました。
里見は「お金や経済に関して、心を引き締めて生活しなさい、という意味だったと思う」と振り返ります。戦争で夫を失い、生活の苦しさを身をもって知っているからこそ、彼女は息子に「浮かれた生活」の危うさを伝えようとしたのでしょう。
ここには、戦後の日本で必死に生きた多くの遺族と同じ、切実な感覚があります。景気が良くなっても、「明日がどうなるかわからない」という不安を抱えながら、子どもにだけは同じ苦労をさせたくないという思いがにじんでいました。
スター俳優となった里見浩太朗と「お金」の教え
その後、里見浩太朗は、テレビ時代劇の世界で大きく羽ばたきます。水戸黄門の助さん役、さらに長七郎江戸日記の主演など、時代劇を代表するスターとなりました。
しかし、時代劇ブームが下火になると、仕事が減り、「冬の時代」を迎えます。これまでの派手な生活を続けることはできなくなり、生活を見直さざるを得ませんでした。
この時、母の言葉が胸に響きます。「お金は永遠ではない」「守るべきものを間違えると、全部なくしてしまう」。番組は、セリフとしてではなく、里見の回想を通じて、そのニュアンスを伝えます。
やがて彼は、時代劇の役者として再びテレビに戻り、特別ドラマやスペシャル番組で活躍を続けていきます。そこには、浮き沈みを経験したからこその、落ち着きと重みがありました。
七夕の短冊「がんばれ浩太朗」に込めた願い
晩年のエツは、介護施設で暮らしていました。ある年、その施設で七夕の行事が行われ、入所者たちはそれぞれ短冊に願いを書きました。
当時、エツの担当だった福澤春美さんは、その短冊の内容が忘れられないと語ります。そこには、「がんばれがんばれ浩太朗」という言葉が、何枚も何枚も書かれていたのです。
短冊は本来、自分の願いを書くものです。しかし彼女は、息子の名前だけを書き続けました。それは、「自分はもう十分生きたから、あとは浩太朗が元気に生きてほしい」という思いの表れのように感じられます。
戦争で夫を失い、苦労を重ねながら育て上げた息子。その息子が、時代劇スターとして全国の視聴者に親しまれていることを、心から誇りに思っていたのでしょう。
花瓶とともに眠る夫婦と、今につながるファミリーヒストリー
平成15年10月、エツは93歳で亡くなりました。亡くなるまで大切にしていたのは、夫・亀一が彫っていた花瓶でした。戦地へ行く前、あるいはその前後の生活の中で、彼が手を動かして作ったものだと考えられます。
花瓶と、戦死の報告書。そして、山西省の小寨村の場所を示す記録。里見浩太朗は、それらを手掛かりに、実際に小寨村を訪れます。20メートル以上の切り立った崖が続く場所で、父は命を落としました。
画面には、その崖の風景とともに、静かに佇む里見の姿が映ります。彼の胸には、「父の死を、ようやく自分の中で受け止められた」という感覚があったのかもしれません。
最後に、山梨・南部町の墓地で、亀一とエツが並んで眠る墓が映し出されます。戦争で引き裂かれた夫婦は、時を経て、ふるさとの土の中で再び寄り添っています。
こうして、俳優・里見浩太朗のファミリーヒストリーは、ひとつの物語として結ばれます。それは、1つの家族だけの話でありながら、戦争と貧しさを生き抜いた、数え切れない人々の姿も重ねて見えてくる物語でした。
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