- 最初の戦国大名・早雲の“リアルな素顔”
- 若き日の盛時は“エリート官僚”だった 花の御所のすぐ近くで過ごす日々
- 応仁の乱がすべてを変えた 治安悪化で名家の暮らしすら崩れる現実
- 38歳での大決断 “海からの奇襲”という大胆な作戦で伊豆を制圧
- 守護と戦国大名の違いとは 黒田基樹教授が語る“時代の分岐点”
- 小田原城攻めは本当に“牛のたいまつ作戦”だったのか?
- 明応9年の大地震が北条に味方した “チャンスは一瞬”の判断力
- 金山の採掘、海上交通の管理、八丈島の発展 早雲が描いた“領国経営の未来図”
- 領民を守るルールを文書で伝えた“先駆けの政治家”
- “混乱の時代こそ、未来を切り開く人が必要になる”早雲の姿勢が現代に重なる
- 申次衆とはどんな役割だったのか
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最初の戦国大名・早雲の“リアルな素顔”
2025年11月19日放送のNHK総合『歴史探偵 最初の戦国大名 早雲の素顔』では、北条早雲の生涯に光を当てていました。京都で幕府に仕えながらも、混乱の時代に翻弄され、それでも自らの力で伊豆を拠点に戦国大名へと成長していく姿が描かれていました。この記事では、番組の内容をまとめ、早雲の“最初の戦国大名”としての実像をたどります。
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若き日の盛時は“エリート官僚”だった 花の御所のすぐ近くで過ごす日々
番組はまず、若き日の伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)に焦点を当てていました。
京都では、室町幕府の中心人物として重要な役割を果たした伊勢氏の一員として育ち、御所の作法や政治の仕組みを間近で見て育った人物です。
番組内では、足利義満が建てた華やかな御所『花の御所』が映像とともに紹介され、そのすぐ向かい側に伊勢家の邸宅が存在したことが説明されていました。ここで盛時は幼い頃から、全国の訴えや陳情をさばく幕府の仕事を間近で見ています。
20代後半には「申次衆」という重要な役職に任命されました。申次衆は、地方から届く膨大な文書を取次ぎ、重要案件を将軍に報告する“情報の玄関口”ともいえる役割です。当時の室町幕府では、申次衆は非常に重要視されており、政治の核心に深く関わっていました。盛時がこの役に就いたことは、彼の能力と家柄の高さを示しています。
応仁の乱がすべてを変えた 治安悪化で名家の暮らしすら崩れる現実
しかし12歳の頃に発生した『応仁の乱』は、盛時とその家を大きく揺るがしました。
京都の町は戦火で荒れ、政治の中心であったはずの幕府は急速に権威を失っていきます。
番組では、盛時が“160万円の借金を抱えていた”という史料が紹介されました。現代でいう名門家庭の出身でありながら、時代の変化で生活は安定せず、景気は悪化し、将来の見通しは立たない――そんな不安定な状況は、現代のロスジェネ世代と重なるとスタジオで語られていました。
このような背景が、のちに早雲が「自らの力で生き抜く」という強い決意を固める土台になったと考えられます。
38歳での大決断 “海からの奇襲”という大胆な作戦で伊豆を制圧
盛時が大きく動いたのは38歳の頃でした。
伊豆を治めていた足利茶々丸を討つため、手勢を率いて伊豆へ向かったシーンが番組で丁寧に再現されていました。
茶々丸は将軍家内部の不祥事に関与したことで信頼を失い、周辺国からも孤立していました。
この状況を冷静に読み取った早雲は、伊豆西側の武将たちと交渉し、陸路ではなく海から上陸するという“予想外のルート”で奇襲をかけました。
番組では、海からの進軍は早雲が当時すでに地理・情勢・味方勢力の力関係を詳細に把握していた証拠だと解説されていました。
奇襲は成功し、のちに茶々丸を討ち、伊豆を完全に掌握します。
さらに番組で紹介された重要な点として、盛時はこの頃に“出家”していたという事実があります。
出家とは、幕府に仕える立場から自らを切り離す行動でもあり、京都に残していた家族や家臣を伊豆に呼び寄せたことから、この時点で完全に「戦国大名として生きる」という覚悟を決めていたことが強調されていました。
守護と戦国大名の違いとは 黒田基樹教授が語る“時代の分岐点”
番組後半では、歴史学者の黒田基樹教授が登場し、守護と戦国大名の違いを詳細に語っていました。
守護は幕府から任命された“支配者”ですが、戦国大名は幕府の枠から離れ、自立した支配体制を築く存在です。
つまり、早雲は“幕府が弱体化した時代だからこそ生まれた、新しいタイプのリーダー”だと説明されていました。
小田原城攻めは本当に“牛のたいまつ作戦”だったのか?
続いて焦点は、小田原城攻略へと移ります。
小田原城は当時、大森氏が治める難攻不落の城として知られていました。
しかし、早雲がどうやって落としたかについて、正確な史料は残っていません。
江戸時代の軍記物には、“牛の角にたいまつをつけて城に押し寄せた”という逸話が残っています。
番組はこの話の検証のため、重要無形民俗文化財にもなっている“牛の角突き”の文化が残る新潟県小千谷市を訪問しました。
角突き歴30年以上の平沢隆一さんは、
「牛は相手を見つけるとすぐに角をぶつけにいくため、たいまつをつけて思い通りに動かすのは極めて難しい」
と実体験に基づいて語っていました。
この話は非常に説得力があり、伝説として語られるエピソードの現実性に疑問を投げかける内容でした。
明応9年の大地震が北条に味方した “チャンスは一瞬”の判断力
番組では、早雲が小田原城を攻めた明応9年に“大地震”が発生していたことにも触れられていました。
この地震により大森家は大きな被害を受け、城の防御・兵力が弱体化していた可能性があると解説されていました。
普段は倹約家として知られていた早雲ですが、決断が必要な場面では“全財産を投じるほどの大胆さ”を発揮したという史料も紹介され、この人物の柔軟性と器の大きさが印象に残りました。
金山の採掘、海上交通の管理、八丈島の発展 早雲が描いた“領国経営の未来図”
後半のハイライトは、早雲が行った“経済戦略”でした。
伊豆の拠点である韮山城の近くの山で金の採掘が行われていたことが紹介され、領国経営の基盤をしっかりと整えていた姿が描かれていました。
また、相模や房総の海域を押さえれば、船の通行税や積み荷税を得られるため、海上交通の支配権をめぐる動きが非常に重要だったと説明されていました。
この発想は、現代でいう“物流を押さえる”ことに近く、経済的視点の鋭さを感じさせます。
さらに番組では、八丈島に自生していた良質な桑に注目していた点が紹介されました。
桑から作られる絹織物は非常に品質が高く、早雲はそれを他国の大名へ贈ることで関東進出の後ろ盾を得ようとしていたと説明されていました。
島内に築かせた防衛のための土塁の存在も紹介され、離島すら戦略拠点として活用していたことがよくわかります。
領民を守るルールを文書で伝えた“先駆けの政治家”
終盤で紹介されたのは、早雲の“文書行政”です。
北条早雲は戦国大名の中でも特に早い時期から、領民の生命・財産を守るためのルールを文書化し、地域に通達していました。
戦が続き、人々が不安定な生活を送る時代にあって、生活の安定を最優先に考えていたことが伝わってきます。
領民の暮らしを支えることは、戦国大名としての支配の安定にもつながりますが、それ以上に「人々が安心して生活できる社会をつくる」という理念があったとされ、早雲の人間味あふれる側面が見えてくる内容でした。
“混乱の時代こそ、未来を切り開く人が必要になる”早雲の姿勢が現代に重なる
番組を通して感じられたのは、北条早雲が非常に多面的な人物だったことです。
戦場での判断力、経済感覚、外交戦略、領民の生活へのまなざし――どれも戦国大名として突出した特徴ですが、同時に“挫折から立ち上がった一人の人間”としての姿がしっかり描かれていました。
応仁の乱という巨大な混乱の時代の中で、京都のエリート官僚から地方での独立を選び、自分自身の力で未来を切り開いた早雲の姿は、社会が揺れている2025年の今も強いメッセージを放っています。
「変化の時代にどう生きるか」。
早雲の生き方には、そんな問いに対する一つの答えが示されているように感じました。
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申次衆とはどんな役割だったのか
申次衆は、室町幕府で将軍のそばに仕え、全国から届く訴え・文書・進物を取り次ぐ役目を担っていました。将軍の御殿で来訪者を記録する「殿中日々記」の作成も行い、政治と儀礼の調整役を務める存在でした。御供衆・御部屋衆に続く家格を持ち、幕府の中心で活動する“窓口係”ともいえる立場で、政務運営の実務の要といえるポジションでした。
伊勢氏が申次衆で果たした特別な位置づけ
室町幕府の政所執事を世襲していた伊勢氏は、中央政務を実質的に支えた名門でした。その一族からは申次衆が複数任じられており、将軍と大名や官僚をつなぐ中心的な役割を担っていました。この体制によって伊勢氏は、幕府の政治と儀礼の両面で直接関与する力を持っていました。例えば伊勢盛定は申次衆として名を残し、家としてこの職務を支える存在だったことがわかっています。政所執事と申次衆を兼ねる家格は、幕府中枢に深く組み込まれていた証であり、当時の権威の象徴でもありました。
『花の御所』と伊勢氏の関係が示す“政治の距離感”
足利義満が京都に築いた『花の御所』は、政治・文化の中心として機能した幕府の象徴的な空間でした。その向かい側に伊勢氏の邸宅があったことは、単なる偶然ではなく、政治の中心とほぼ一体化した距離感を示すものです。将軍のいる空間とすぐ向かい合わせに邸宅を構えることは、物理的にも社会的にも幕府の中枢に密接に関わっていた証拠です。
申次衆として取次ぎを担当した伊勢氏が『花の御所』の正面に居を構えていたことは、将軍と各地の大名をつなぐ“動線”の中心に位置していたという意味を持ちます。こうした環境で育った伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、幼い頃から幕府の情報や政治の流れを目の前で感じ取れる立場にありました。この経験は、のちに自らが戦国大名として独り立ちする際の大きな基盤になったと考えられます。
この三つの視点を合わせることで、伊勢氏が申次衆として幕府政治に深く関わっていたこと、そして盛時がその中で育った背景が、戦国大名北条早雲の出発点として非常に重要だったことが見えてきます。
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