「75万人命救った用水路〜医師・中村哲 希望のアフガニスタン」
アフガニスタンの砂漠地帯に、中村哲という日本人医師がつくり上げた一本の用水路。
この水が流れ始めたことで、枯れきっていた大地は再び緑を取り戻し、75万人が暮らしを立て直す力を得ました。
医療のために渡った土地で、中村は“命を救う道”がまったく別のところにあると気づきます。
それが、農地に水を届けるという人類の原点ともいえる営みでした。
この記事では、このページでは『新プロジェクトX(2025年12月12日)』の内容を分かりやすくまとめています。
過酷な環境での決断、仲間との協力、現地の人々の努力、そして亡くなった後も受け継がれる志をたどります。
アフガニスタンの“死の谷”に挑んだ医師・中村哲の原点
1980年代、パキスタン・アフガニスタン周辺には、戦乱から逃れてきた難民が大勢いました。
中村哲は最初、感染症やハンセン病の診療を目的に渡りましたが、目にしたのは病気だけでなく、干ばつで土地が割れ、人々が水を探して歩き続ける姿でした。
井戸が枯れ、農地が崩れ、子どもたちは十分な食事を得られず体力を落としていく。
治療をしても、生活の基盤が壊れたままでは命を守れない――
そう感じた瞬間、中村の中で「医療だけでは救えない」という考えが強く芽生えました。
そこで始めたのが井戸掘りです。
水が得られるようになれば生活は変わる。しかし井戸に頼るだけでは限界がある土地も多く、より大きな仕組みが必要だと気づきます。
この気づきが、のちの『アフガニスタン 用水路』という壮大な挑戦へつながっていきました。
パキスタンでの診療とアフガニスタンへの覚悟
パキスタン・ペシャワールの診療所には、毎日のようにアフガニスタンから患者が押し寄せました。
彼らは戦火を逃れ、生き延びるために国境を越えてきた人たちです。
治療をするたび、中村は“この人たちの暮らしている土地はどれほど過酷なのか”と考えるようになりました。
実際にアフガニスタンの村に足を踏み入れると、水不足と貧困があまりにも深刻で、病の原因は生活全体の崩壊にあると実感します。
汚れた水しか飲めず、農地も失われ、支援はたびたび途切れる。
医療を続けるほど、「根っこから変えなければ人は救えない」という想いが強くなりました。
それでもアフガニスタンに診療所を広げようと決めたのは、人々の強さを知ったからです。
危険や不便があっても、村人たちは必死に生活を繋ごうとしていました。
中村はその姿に心を動かされ、生活基盤ごと支える長い道のりへと進んでいく覚悟を固めました。
大干ばつと戦乱で崩壊した暮らしを救う「緑の大地計画」
2000年前後、アフガニスタンには“100年に1度”とも言われる大干ばつが襲いました。
農地はひび割れ、家畜は倒れ、飲み水さえ足りない。
そこに戦乱が重なり、国際支援も一時撤退。村人たちは生きる術を失い、深刻な飢餓に苦しむ人が後を絶ちませんでした。
中村はこの状況を前に、医療よりも先に水を届ける必要があると強く訴えます。
そこで生まれたのが『緑の大地計画』。
川から水を引き、砂漠のようになった土地を農地に戻す壮大な構想です。
この計画では、ただ水を流すのではなく、
・地域の人たちが自力で保守できること
・永く使い続けられる仕組みであること
・子どもたちが未来の暮らしを想像できること
を大切にしました。
中村は「水が流れれば人は働ける。働ければ家族を守れる」と語り、農地の再生に大きな希望を見いだしていました。
医師が挑んだ“13kmの用水路建設”とペシャワール会の支え
2003年、クナール川を水源に、砂漠地帯まで水を届ける用水路工事が始まります。
長さは13km。重機も限られた山岳地帯で、川の勾配をわずかな誤差で調整しながら進む非常に繊細な作業でした。
現地スタッフ、村人たち、そして日本から支援を続けたペシャワール会。
とくに村人たちの働きは大きく、朝から夕方まで鍬を振るい、石を運び、汗を流しながら工事を支えました。
中村は「主役は現地の人」と常に考えており、技術を渡すことを重視しました。
完成した用水路に水が流れた日、砂漠だった土地に麦の芽が顔を出し、果樹が根を張り始めました。
やがて何万もの人が農業を再開し、食糧が戻り、地域の生活は大きく変わっていきました。
これが“75万人の命を救った用水路”と呼ばれる所以です。
仲間たちが語る中村哲の思想と残された希望
番組では、長年の仲間である村上優が中村の姿勢を語りました。
印象的なのは、どんな時も「現地の人が続けられるか」を判断基準にしていたことです。
外国人が主導すると、撤退した瞬間に活動は止まってしまう。
だからこそ技術を残し、責任を預け、共に歩む道を選び続けました。
また、中村は“報復をしない”という考えを貫きました。
診療所が銃撃されても、現地の人と衝突しても、暴力の連鎖を強める選択だけはしませんでした。
平和のための行動を続け、灌漑の技術は『PMSメソッド』として地域に根付き、今も守られている工法となりました。
中村の活動は、土地を変えるだけでなく、仲間たちの心にも深い信念を残しています。
地震被害への支援と受け継がれる遺志「最善を尽くす」
2025年8月、アフガニスタン東部で大地震が発生しました。
支援が入りにくい山岳地帯に向かったのは、中村とともに用水路を守ってきた現地スタッフたちでした。
彼らは食料や毛布を集め、困っている人のもとへ走りました。
支援の根底にあるのは、中村がいつも語っていた
「出会った人に最善を尽くす」
という考え方です。
2019年に中村が襲撃されて命を落とした際、現地では深い悲しみが広がりましたが、仲間たちは彼の遺志を胸に事業を続けています。
用水路は今も流れ続け、農業を支え、村の生活を守り続けています。
まとめ
中村哲が残したのは、用水路という形だけではありません。
人と向き合い、土地を理解し、その場で生きる人々を信じる姿勢でした。
『緑の大地計画』『ペシャワール会』『アフガニスタン 用水路』の取り組みは、彼の言葉とともに未来へと受け継がれています。
アフガニスタンの農業の今を、追加情報として紹介します

アフガニスタンでは、農業が人々の暮らしを支える大事な産業になっています。山が多く雨が少ない国なので、畑を守るためには水の確保が欠かせません。ここでは、現在の農業がどんな状況に置かれているのか、より具体的に紹介します。厳しい環境の中でも、農民たちが希望を失わずに作物を育て続ける姿が見えてきます。ここからの内容は、本文に書ききれなかった追加情報としてまとめています。
農業が暮らしの中心である理由
アフガニスタンでは人口の多くが農村で暮らし、畑や家畜を育てることで生活しています。特に主食となる小麦や大麦は、家族の食卓を支える大切な作物です。農業がうまくいくかどうかで、その年の暮らしや収入が大きく変わります。そのため、農業は単なる産業ではなく、人々の日常そのものを形づくる存在といえます。
生産を悩ませる水不足と灌漑の問題
アフガニスタンの農業にとって、最も深い悩みになっているのが水不足です。雨だけに頼ると作物が育たない地域が多く、積もった雪が解けて川に流れ込む水が農業の命綱になります。しかし、この水を畑まで運ぶ灌漑設備が足りていなかったり、壊れたままになっていたりする場所が少なくありません。干ばつが続くと畑の土が固まり、種をまいても芽が出ない年もあります。こうした状況は、農民の生活を直撃します。
干ばつ・洪水による“気候ショック”が深刻
アフガニスタンの環境はとても不安定で、干ばつが長く続いたかと思えば大雨や洪水が発生することもあります。気候の極端な変化が、せっかく育った作物を一気に失わせることもあります。これらの気候ショックは農民の収入を減らし、食料不足をさらに深刻にしています。こうした影響の積み重ねが、国全体の食料不安にもつながっています。
食料危機が家庭の食卓を直撃
農業がうまくいかないと、家族が食べるものも不足していきます。食べる量を減らしたり、子どもに優先して食べさせたりする家庭もあります。収入が減ると市場で食料を買う力も弱まり、栄養が不足しがちになります。とくに子どもや母親の体に影響が出やすく、健康を守ることが難しくなります。こうした食料危機は、長く続く大きな問題になっています。
多様な作物はあるが、自給はまだ不安定
小麦や米のほかにも、野菜や果物など多くの作物が育てられています。干ばつに強い作物を選び、なんとか収穫を増やそうとする工夫も続けられています。しかし、国全体で見ると、まだ食料を十分に作れていない地域が多く、輸入に頼らざるを得ない場面もあります。水の確保が安定すれば、農業の可能性はもっと広がると期待されています。
気候変動と脆い農業インフラの影響
地球規模の気候変動も、アフガニスタンの農業を揺らしています。雨の降り方が変わったり、雪が少なくなったりすると、水の量にすぐ影響が出ます。豪雨が灌漑施設を壊し、畑が流されてしまう場所もあります。新しい水管理の方法や農業技術が導入されつつありますが、すぐにすべての地域が恩恵を受けられるわけではありません。農民たちは毎年変わる環境に向き合いながら、作物を守る努力を続けています。
まとめとして
アフガニスタンの農業は、多くの課題を抱えながらも、人々の生活を支える基盤として続いています。水不足、干ばつ、灌漑設備の不備など厳しい現実がありますが、それでも畑を耕し続ける人々の強さがあります。こうした背景があるからこそ、用水路の整備や灌漑事業が今も必要とされ、暮らしを支える希望につながっています。
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