秋の初物が教えてくれる、尼寺の静かな豊かさ
このページでは『やまと尼寺 精進日記 初物づくし 秋うまし(2025年12月29日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。長い夏を越え、奈良の山あいにある尼寺に秋が訪れます。新米、サトイモ、ムカゴ、ギンナン、柿といった初物が次々とそろい、自然の恵みを余すことなく受け取る暮らしが描かれます。
この回では、季節の移ろいとともに、精進料理が生まれるまでの過程や、人の手と自然がつながる時間が積み重ねられていきます。
やまとに訪れた実りの秋と季節の変化
舞台となるのは奈良の山里にある宗教法人観音寺です。
長く続いた厳しい暑さがようやく和らぎ、境内や庭には少しずつ秋の気配が広がっていきます。
田んぼでは、黄金色に近づいた稲穂が頭を垂れ、新米の収穫を迎えます。
畑では、土の中でじっくり育ったサトイモが掘り出され、手に取ると秋の重みが伝わってきます。
庭に目を向けると、地面にはムカゴが顔を出し、見上げればイチョウの木から実が落ち始める季節です。
こうした変化は、カレンダーや数字ではなく、風の匂いや木々の色づき、足元の土の感触として感じ取られます。
尼寺の暮らしでは、自然の変化を無理にコントロールしようとはしません。
その日の天気や、作物の育ち具合、庭の様子を静かに見つめながら、今ある恵みをそのまま受け止めていきます。
小さな変化を見逃さず、季節の流れに身を委ねること。
尼寺の日々は、そうした積み重ねから始まり、秋という季節を丸ごと暮らしの中に迎え入れていくのです。
観音縁日にふるまう初物料理『いもぼた』づくり
秋の行事である観音縁日に向けて作られるのが『いもぼた』です。
この料理は、すでに出来上がったものを使うのではなく、アズキを収穫するところから始まります。
畑で実ったアズキを丁寧に選び、時間をかけて下ごしらえをします。
炊き上げるあんこは、甘みをぐっと抑えるのが尼寺流です。砂糖に頼らず、アズキ本来の風味を生かすことで、後味の軽いあんこになります。
そこに合わせるのが、その年にとれた新米と、土の中で育ったサトイモです。
ほくほくとしたサトイモの食感と、新米のやさしい甘さが、あんこと一体になり、素朴でやさしい味わいの精進料理に仕上がります。
派手な調味や飾りは一切ありません。
素材そのものの力を引き出し、初物の持つ力をそのまま味わうことが大切にされています。
この『いもぼた』は、観音縁日に訪れる参拝客にふるまわれます。
ただの料理ではなく、秋の初物を分かち合う象徴としての意味を持ち、尼寺の暮らしと信仰、そしてもてなしの心が一皿に込められた特別な一品です。
庭の恵みを集めるギンナン応援隊と炊き込みご飯
境内のイチョウがたくさんの実をつけた年には、尼寺ならではの大切な作業が始まります。
それが、地面に落ちたギンナンを拾い集める作業です。
番組では、この作業に集まった人たちを『ギンナン応援隊』と呼び、にぎやかすぎず、けれど前向きな空気の中で、一粒一粒を丁寧に拾い上げていく様子が描かれます。
足元に目を凝らし、落ち葉をかき分けながら、無駄にしないという気持ちで集められていくギンナンは、まさに秋の恵みそのものです。
この地道な作業への感謝として用意されるのが、お礼のお膳です。
主役となるのは、庭でとれたムカゴと、拾い集めたギンナンを一緒に炊き込んだご飯。
土の中で育ったムカゴのほくっとした食感と、ギンナン特有の香りとほろ苦さが、ご飯の中でやさしく混ざり合います。
調味は控えめで、山の恵みそのものの味が前に出る一杯です。
この炊き込みご飯は、特別なごちそうでありながら、どこか日常に根ざした存在でもあります。
山の恵みがそのまま一杯のご飯に変わり、口に運ぶたびに秋の香りと滋味が静かに広がっていきます。
拾う人、作る人、食べる人。
それぞれの手と気持ちがつながることで、この尼寺ならではの秋の時間が、ゆっくりと形になっていくのです。
初物の柿で味わう精進の白和え
秋の果物として欠かせない存在が柿です。
この回では、その年に最初に実った初物の柿を使った白和えが、尼寺の食卓に並びます。
使われるのは、やさしく水切りした豆腐を土台にした和え衣です。
そこに加えられる柿は、甘さが強すぎず、自然のままの味わいが生きています。
豆腐のなめらかさと、柿のほのかな甘みが合わさることで、重たさのない一品に仕上がります。
口に運ぶと、豆腐のやさしさの中に、柿の季節感がふわりと広がります。
油や強い調味に頼らないため、素材の違いがそのまま伝わり、精進料理らしい静かな味わいが感じられます。
見た目もまた印象的です。
白い和え衣に、柿のやわらかな橙色が映え、派手さはなくとも、落ち着いた美しさがあります。
器の中に、秋の気配がそっと閉じ込められているようです。
初物をいただくことは、単に「旬を味わう」だけではありません。
その年の実りを最初に分けてもらうという行為そのものが、自然への感謝を表しています。
この柿の白和えは、言葉を多く語らずとも、
自然の恵みをありがたく受け取る気持ちを、料理を通して静かに伝えてくれる一皿です。
薪ストーブに火が入り、秋から冬へ
秋がさらに深まると、尼寺の暮らしにもはっきりとした変化が訪れます。
それが、薪ストーブに火が入る瞬間です。
薪ストーブに火を入れることは、単なる暖房の始まりではありません。
それは、冬が近づいている合図であり、季節が次の段階へ進んだことを知らせる大切な節目です。
火が入ったストーブの前では、炎のぬくもりがじんわりと広がります。
ぱちぱちと薪がはぜる音が空間に響き、静かな寺の中に、あたたかな時間が生まれます。
その音や光は、これから迎える寒い季節への心構えを、自然と整えてくれます。
この頃、食卓には秋の初物を使った料理が並び、初物づくしの季節が一つの区切りを迎えます。
収穫の喜びと、冬支度の始まりが同時に訪れ、暮らしの中に季節の節目がくっきりと刻まれます。
尼寺の暮らしでは、季節の移ろいを急かすことはありません。
自然の流れに身を委ねながら、必要なときに、必要な準備を整えていきます。
薪ストーブの火とともに、
自然と共に生きる時間が、静かに、そして確かに締めくくられていくのです。
まとめ
『やまと尼寺 精進日記 初物づくし 秋うまし』は、秋の初物を通して、自然の恵みを受け取り、感謝し、分かち合う尼寺の暮らしを描く回です。新米やサトイモ、ムカゴ、ギンナン、柿といった食材が、手間をかけた精進料理へと姿を変え、季節の移ろいがそのまま日常に映し出されます。
初物を食べるという日本の風習が持つ意味

日本では、季節に最初に実った食べ物を初物として大切に扱ってきました。初物を食べることは、ただ新しい味を楽しむ行為ではなく、その年の恵みを最初に分けてもらうという意味を持っています。自然の流れの中で育った作物が無事に実ったことを受け止め、季節が巡ってきたことを体で感じる行為でもあります。尼寺の暮らしでも、この考え方は日々の営みの中に自然と息づいています。
初物が縁起が良いとされてきた理由
初物は、その季節の力や生気が最も満ちていると考えられてきました。昔から「初物を食べると寿命が延びる」と言われることもあり、季節の始まりに体に取り入れることで、これからの時期を元気に過ごせると信じられてきた背景があります。縁起の良さとは、特別なことを起こす力ではなく、自然の流れにきちんと乗ることそのものだったのです。
感謝の気持ちとともに受け取る食べ物
初物は、いきなり口にするのではなく、仏前や神前に供えられることも多くありました。それは、収穫できたことへの感謝を先に表すためです。尼寺の暮らしでも、初物は自然からの贈り物として静かに受け取られます。食べる前に手をかけ、整え、ありがたくいただく。その一連の流れ自体が、感謝の形になっています。
尼寺の暮らしに重なる初物の意味
尼寺では、初物は特別な料理に変わりますが、扱い方は決して大げさではありません。新米、サトイモ、ムカゴ、ギンナン、柿といった食材を、今ある分だけ使い、丁寧に調えます。初物を味わうことは、季節の始まりを知らせる合図であり、次の季節へ向かう心の準備でもあります。こうして初物は、縁起や感謝という言葉を超えて、自然と共に生きる時間を静かに刻んでいく存在として、尼寺の暮らしに溶け込んでいます。
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