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【歴史探偵】秀吉のライバル 明智光秀はなぜ負けた?本能寺の変・山崎の戦い・13日間の戦略と乙夜之書物|2026年1月14日

歴史探偵
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13日間で決まった運命 光秀はどこで勝ち筋を誤ったのか

このページでは『歴史探偵(2026年1月14日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。

明智光秀は、本能寺の変で織田信長を討ったあと、わずか13日で表舞台から姿を消しました。
この短い時間は、衝動ではなく、綿密な戦略と判断の連続でした。

新史料が示す意外な指揮の場所、朝廷から託された都の守り、そして豊臣秀吉の情報戦。
勝っていたはずの局面は、どこで崩れたのか。
13日間を追うことで、戦国の勝敗を分けた分岐点が浮かび上がります。

13日間の骨格(本能寺の変から山崎の戦いまで)

明智光秀は、6月2日の本能寺の変織田信長を討ち、そのわずか13日後、6月13日の山崎の戦い豊臣秀吉に敗れます。
番組はこの期間を、偶然や勢いではなく、光秀が準備を重ねて踏み出した一連の判断として描いていました。

光秀の行動は、「起こして終わり」の反乱ではありません。
信長亡きあとの権力構造を見据え、都をどう押さえ、諸将の動きをどう止め、どこで勝ちを確定させるかまでを含んだ設計でした。
短期間であっても、その一手一手には明確な狙いがあり、行き当たりばったりの要素は見当たりません。

番組全体は、光秀がこの13日間でどれほど緻密に動いていたのかを積み上げるように示しながら、
同時に、どの判断が積み上げを崩す引き金になったのかへと視線を導いていきます。
勝ち筋は確かに存在していた。
それでも最後に崩れた理由は何だったのか。
この13日間こそが、光秀の運命を決定づけた骨格として描かれていました。

新説「乙夜之書物」が示す指揮の場所

番組の大きな柱となったのが、金沢市立玉川図書館に残されていた史料「乙夜之書物」です。
これは戦国時代の出来事を聞き書きでまとめた記録で、明智光秀の重臣の息子である斎藤利宗が、本能寺の変の内情を証言していると紹介されました。

この史料が突きつけた最大のポイントは、光秀が本能寺の現場にはおらず、京都南部の鳥羽で全体の指揮をとっていた可能性です。
ここで番組は、光秀の狙いが「討ち取る瞬間」よりも、「信長を逃がさない構造づくり」にあったことを強調します。

当時、大阪には織田信長の三男である織田信孝が、およそ1万5000の軍勢を率いて控えていました。
もし信長が本能寺から脱出し、信孝と合流すれば、光秀の計画は一瞬で崩れます。
その事態を防ぐため、光秀は鳥羽に布陣し、脱出ルートそのものを押さえようとしていたのではないか。
番組はそうした戦略的意図を、史料と地理条件から読み解いていきました。

さらに踏み込んだのが、本能寺周辺の兵の配置です。
本能寺の南側と東側は市街地に面しており、明智勢2000のうち実際に配置できたのは200人ほどだったと説明されました。
この配置の制約は、包囲が完全ではなかったことを示しています。

元海上自衛隊の川上智氏は、仮に信長側が100人程度であっても、
信長を中心に密集隊形を組み、一部を陽動に使えば、本能寺から脱出できた可能性はあったと分析します。
つまり光秀は、「現場で確実に仕留める」よりも、「逃げ道を封じる配置」に賭けていた構図が浮かび上がるのです。

この一連の検証を受け、研究者の萩原大輔氏は、
光秀は想像以上に周到にクーデターを設計していたと語りました。
番組が描いたのは、偶然の反乱ではありません。
光秀は、地形、兵力、時間、そして信長の次の動きまでを計算に入れた、冷静で計画的な一手を打っていた存在として浮かび上がっていました。

天下人に近づいた光秀(安土城と朝廷の後ろ盾)

番組は、明智光秀が天下人に最も近づいた瞬間を、戦場ではなく「城」と「政治」の動きから描いていました。
本能寺の変のわずか4日後、北陸から京へ引き返そうとする柴田勝家の存在が示されます。
この局面で光秀は、守りに徹するのではなく、相手の行動そのものを止める選択をします。

光秀がまず動いたのは拠点の掌握でした。
安土城を押さえ、佐和山城長浜城を次々と攻略し、さらに若狭の武田氏を味方につけることに成功します。
これにより柴田軍は前進できず、戦局は一時、光秀に有利な方向へ傾きました。
拠点を押さえることは、兵の移動を制限するだけではありません。
情報、補給、そして「誰が正統なのか」という見え方までも支配する行為です。
番組はこの場面を、光秀が確実に主導権を握っていた強い局面として位置づけていました。

そして決定的だったのが朝廷の動きです。
6月7日、光秀は安土城で朝廷の使者を迎え、天皇から都の守護を命じられます。
これは単なる激励ではなく、「都を預かる者」として公式に認められたことを意味します。
光秀はこの時点で、武将であると同時に、政治的な正統性を正面から掲げる立場に立っていました。

スタジオでは、安土城跡に残る石垣の痕跡にも触れられました。
意図的に壊されたように見える構造について、研究に関わる松下浩氏は、
豊臣秀吉が安土城を破壊することで、織田家の天下が終わったことを視覚的に示そうとした可能性を指摘します。
さらに、光秀が朝廷の交渉役を担い、連歌を通じて公家と深く交流していた点も紹介されました。
朝廷側から見れば、織田信長よりも光秀のほうが扱いやすい存在だったのではないか。
そんな含みを持たせた見方が示されます。

番組がここで浮かび上がらせたのは、
光秀が剣と槍だけで天下を取りに行った武将ではない、という姿です。
と同時に政治と権威を握りにいったからこそ、光秀は一瞬、天下人の位置に手をかけていた。
その現実が、静かに、しかし明確に描かれていました。

光秀の守りと崩れた味方(山崎の戦い直前)

物語の山場として描かれたのが、豊臣秀吉の中国大返しを知った明智光秀が、進軍ルート上の山崎を固める局面です。
番組はここを、光秀の判断が「正しさ」と「縛り」を同時に背負い込んだ決断として位置づけていました。

光秀は、朝廷から都の守護を任されている以上、京への侵入を許せば面目が立たない立場にありました。
だからこそ山崎を死守する。
しかしその防衛は、「守れば勝てる」という積極策ではありません。
「守らなければ立場が崩れる」という、逃げ場のない選択でもありました。
この“面目の優先”が、のちに数的不利と重なり、戦局を硬直させていきます。

決定的だったのが、味方の離反です。
山崎の戦い直前、光秀に与していた高山右近が寝返ったことが語られました。
番組では、織田信長がキリシタンに好意的だったという背景を踏まえ、
イエズス会が高山に対し、「暴君(光秀)に味方してはならない」と要請していたと説明されます。

この場面は、戦国の勝敗が武力だけで決まらない現実を強く示していました。
味方が一人抜けると、減るのは兵の数だけではありません。
周囲の空気、判断の迷い、そして「次は自分かもしれない」という疑念が広がっていきます。
番組でも、他の有力武将が次々と光秀から離反していく流れが示され、
崩れは一気に連鎖していきました。

山崎を守るという正しい判断は、
同時に光秀自身を縛る鎖にもなっていた。
番組は、勝つために選んだはずの守りが、結果として選択肢を奪っていく過程を、静かに、しかし明確に描いていました。

秀吉の情報戦と決着(中国大返しと「大義」)

スタジオトークで特に強調されたのが、豊臣秀吉の情報の使い方です。
番組では、秀吉が織田信長織田信忠が生存しているという話を意図的に流しながら、中国大返しを進めていた点が語られました。
戦う前に、空気と判断を先に動かす。
秀吉は、戦場に立つ前から勝負を始めていた存在として描かれます。

佐藤二朗さんは、「信長が生きていることになったら、光秀に味方なんてできない」という趣旨のコメントを残しました。
この一言が象徴するのは、情報が武力以上に人の判断を縛るという現実です。
光秀にとって不利な噂は、刃を交える前に支持を削り、陣営の空気を冷やしていきました。

ここで番組が示した対比は明確です。
明智光秀は、朝廷から次期天下人として公認されたことで、数で劣っていても面子を守らねばならない立場に置かれていました。
一方の秀吉には、「主君の仇を討つ」という揺るぎない大義名分があります。
河合敦さんは、この大義の有無こそが勝敗を分けた決定的な差だったと推測していました。

そして結末です。
山崎の戦いで敗れた明智光秀は、逃亡の途中で落ち武者狩りに遭い、その生涯を終えます。
番組全体を通して浮かび上がったのは、光秀が決して無策な人物ではなかったという事実です。
計画も勝ち筋も確かに存在していた。

しかし、味方と空気が離れた瞬間、その立場は急速に弱くなっていきました。
最後に勝敗を分けたのは、兵の数ではありません。
残された支持の量と、大義の重さ。
番組は、戦国の決着がそこに行き着く過程を、静かに、しかし断定的に描いて締めくくっていました。

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