這い上がれ スキージャンプ日本〜世界最強ジャンパー誕生へ〜
日本のスキージャンプが、どん底から再び世界の頂点へ挑んでいく――その裏側には、挫折と執念、そして世代を超えて受け継がれる情熱がありました。
このページでは『新プロジェクトX 這い上がれ スキージャンプ日本〜世界最強ジャンパー誕生へ〜(2026年1月31日)』の内容を分かりやすくまとめています。
葛西紀明や原田雅彦、そして小林陵侑。名だたるジャンパーたちが、仲間・ライバルとして互いを高め合い、雪煙の先に見つけた“世界最強”への道を描きます。
日本ジャンプのお家芸からどん底へ
かつて日本はスキージャンプ日本代表が「お家芸」と呼ばれる時代を迎えていました。札幌オリンピックでは日本勢が表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」は世界を驚かせます。そこから全国の雪国で少年団が次々に生まれ、北海道の下川町でも子どもたちがジャンプ台に集まりました。
その中の一人が小学3年生の葛西紀明でした。決して裕福ではない家庭で育った葛西は、2歳年上の岡部孝信から板やブーツなどの用具を譲り受けながら、ひたむきにジャンプを続けます。北海道の小さな町で、「飛ぶこと」に人生を賭ける少年の原点が生まれていたのです。
しかし、1988年のカルガリーオリンピック団体戦で日本はまさかの最下位。ジャンプ王国と言われた日本の名声は地に落ち、代表チームには「一から立て直さなければならない」という危機感が広がりました。番組では、この敗北をきっかけに、コーチ陣が思い切った世代交代と強化プロジェクトに踏み切った様子が描かれます。
若手として選ばれたのが、伸び盛りの原田雅彦と、天性の踏み切りを持つ葛西。コーチの小野学らは「世界最強のジャンパーを日本から生み出す」という大きな目標を掲げ、オリンピック個人金メダルとワールドカップ総合優勝の“二冠”を将来のゴールに据えました。
葛西紀明と原田雅彦、V字ジャンプへの挑戦
当時、世界のスキージャンプ界を席巻していたのが、フィンランドの天才マッチ・ニッカネン。長い助走から美しい前傾姿勢で飛び出し、圧倒的な飛距離で勝ち続けるその姿は、日本が目指すべき「世界最強ジャンパー像」そのものでした。
一方でヨーロッパでは、板の先端を大きく開くV字ジャンプが登場します。見た目は従来の平行スタイルより「カッコ悪い」と言われ、当初は飛型点で減点される“邪道”のフォームでしたが、空気を捉える力が桁違いで、飛距離は一気に伸びました。ニッカネンを破る選手たちの多くがV字を取り入れたことで、日本も無視できない状況になります。
日本代表は独自の研究に乗り出し、東京大学の風洞実験装置を使って板の開き角度や姿勢を徹底的に解析。科学委員の渡部和彦らが人形やデータを用いて試行錯誤を重ね、板の開きが約38度付近で揚力と安定性のバランスが最も良いという結論にたどり着きます。
この新しいスタイルに最初期から挑んだのが原田でした。彼は「勝つためなら形にこだわらない」と、すぐにV字を導入してフォームを作り替えていきます。一方の葛西は、V字の見た目にどうしても納得できず、しばらくは従来の平行スタイルにこだわっていました。
しかし、代表コーチ陣は「V字に転向しなければオリンピックには連れて行かない」と決断します。そこで葛西は腹をくくり、翌日からV字への大きなフォームチェンジに踏み出しました。飛び方をゼロから作り直す作業は恐怖との戦いで、着地で板が暴れる感覚に悩まされながらも、ラージヒルで10m以上飛距離を伸ばすまでに到達していきます。
こうして原田と葛西を軸にした新生日本代表は、世界と戦える“第2の飛行隊”へと変わり始めました。
長野オリンピックとレジェンドの葛藤
1994年のリレハンメルオリンピック。V字ジャンプを武器に総合力を高めた日本は、団体戦で金メダルに手が届く位置まで躍進します。コーチ陣は、3番手にエースの葛西、4番手のアンカーに最年長の原田を起用。3人目までのジャンプは成功し、2位ドイツを大きく引き離しました。
しかし、アンカー原田のジャンプは97.5m。必要とされていた距離に届かず、金メダルは目前でこぼれ落ちます。スタジオでは、このときの心境を原田自身が振り返り、「心のどこかで金メダルはいけると思っていた」と語り、葛西も「エースとして自分も緊張で飛び切れなかった」と、プレッシャーの重さを明かしていました。
そこから4年、日本中が注目した長野オリンピックがやってきます。ジャンプ会場となったのは、長野県白馬村の白馬ジャンプ競技場。ラージヒルとノーマルヒルが並び立つこの巨大なジャンプ台は、地上約140mのスタートゲートから飛び出すスケールの大きさで知られ、今も観光客がリフトで上ることができる“聖地”です。
長野大会の個人戦で、船木和喜が金メダル、原田が銅メダルを獲得し、日本中が沸き立ちます。ところが、団体戦のメンバーからは葛西が外されました。前年には母親を亡くし、さらにその誕生日の試合で足を傷めていた葛西にとって、長野はどうしても結果を出したい大会。代表から外れた瞬間、彼の中で何かが切れてしまいます。
番組のインタビューで葛西は、「正直、金メダルを取ってほしくないと思っていた」と胸の内を告白しました。チームは団体金メダルを獲得し、日本中が歓喜に沸く一方で、葛西はジャンプ台から宿舎まで涙が止まらなかったと語ります。自分もそこに立ちたかった、という痛切な思いが、後に“レジェンド”と呼ばれるまで現役を続ける原動力になっていきます。
科学トレーニングと国立スポーツ科学センターの力
長野で金メダルを獲得した後、日本のスキージャンプ日本代表には新たな壁が現れます。国際スキー連盟(FIS)がルールを変更し、板の長さを「身長+80cm」から「身長の146%まで」に制限したのです。この変更は体格の小さい日本選手には不利で、長身が多いヨーロッパ勢の板は相対的に長くなり、有利になりました。
ルール改正以降、多くの外国人ジャンパーが勝ち星を重ね、日本は再び苦しい時期に入ります。葛西もフォーム変更を繰り返しながら理想のジャンプを模索しますが、なかなか結果に結びつきません。2006年には原田が現役を退き、長くチームを支えた世代が一線を離れていきました。
そこで日本が本格的に力を入れ始めたのが、若手育成と科学トレーニングです。東京都北区西が丘にある国立スポーツ科学センター(JISS)では、風洞実験棟やハイパフォーマンス・ジムなどを備え、各競技のトップ選手がデータを基に動きを改善できる環境が整備されました。
ジャンプ陣もこの施設を活用し、助走姿勢、踏み切りの角度、空中姿勢などを細かく分析。映像とセンサーを用いたフィードバックにより、「感覚頼み」だった部分を数値化し、選手ごとに最適なフォームを追求していきます。番組では、こうした科学的サポートが、のちに世界の頂点に立つ高校生ジャンパーを成長させる土台になったと紹介されていました。
原田は名門実業団チームのコーチとなり、自分が味わった栄光と挫折の経験を若手に伝え続けます。ベテランの知恵、最先端の科学、そして地方のジャンプ台で育つ“次の世代”が、少しずつ線でつながり始めたタイミングで現れたのが、小さな町から出てきた一人の才能でした。
小林陵侑、世界最強ジャンパーへの覚醒
岩手県出身の小林陵侑がジャンプを始めたのは6歳のころ。才能は早くから注目されていたものの、フォームの安定や踏み切りの精度には課題を抱えていました。高校生になり、国立スポーツ科学センターの風洞実験やデータ解析を活用する中で、空中姿勢や踏み切り動作が少しずつ磨かれていきます。
同じ頃、41歳になっても現役を続けていた葛西は、ある試合で高校生のダイナミックなジャンプに目を奪われます。それが小林でした。葛西は自らのチームにスカウトし、「一緒に世界を獲りに行こう」と声を掛けます。
しかし、ワールドカップ初挑戦のシーズンで小林は25戦してポイント0。世界の壁の厚さに打ちのめされます。そこで葛西は、「悔しくないの? 本気で変わるなら全部教える」と問いかけ、自らのトレーニングを目の前で見せつける形で特訓をスタートさせました。
葛西が見抜いていたのは、小林の踏み切りで起こる“スリップ”。ジャンプの瞬間に板がわずかに後ろへ滑り、力が雪面に伝わり切っていなかったのです。その癖を直すために用意されたのがインラインスケート。平地でしっかりと地面を捉える感覚を身につけることで、助走から踏み切りまでの動作を洗い直していきました。
0ポイントのシーズンからわずか2年後、小林は劇的な変貌を遂げ、2018–2019シーズンのワールドカップで13勝、史上3人目の“4ヒルズ全勝”を含む圧倒的な成績でワールドカップ総合優勝を達成します。
そして2022年の北京オリンピック。ノーマルヒル個人戦で小林は、本番1時間前に行われた試技をあえて1本も飛ばさず、体力と集中力のピークを本番だけに合わせるという戦略を選びます。この“試技に出ない”決断は、長年の経験から「一発にすべてをかける」ことの難しさと意味を知る葛西の影響を色濃く受けたものです。
結果は、1本目で首位に立ち、2本目でも大ジャンプを決めて金メダル。日本ジャンプ勢としては長野オリンピック以来24年ぶりの個人金という歴史的な快挙になりました。スタジオでその瞬間を振り返った葛西は、「こんなにうれしい気持ちになったのは初めてかもしれない」と涙ながらに語り、かつて他人の金メダルを素直に喜べなかった自分との変化をにじませていました。
下川町から未来のオリンピックへ
物語のラストでカメラが向かったのは、レジェンドの故郷である北海道の下川町です。人口約3000人の小さな町は、「スキージャンプの町」として知られ、下川ジャンプ少年団からは葛西や岡部、小林の兄弟、伊藤有希など7人ものオリンピアンが生まれています。
今も町には複数のジャンプ台が整備され、全国から集まった中高生が合宿を行っています。少年団の子どもたちは、かつて葛西がそうだったように先輩の板やウェアを譲り受けて練習を重ね、冬のナイター照明の下で何度も飛び込みを繰り返しています。番組では、「道具を受け継ぐ文化」が技術だけでなく、挑戦する心も次の世代へ手渡している様子が印象的に映し出されていました。
一方、東京では国立スポーツ科学センターが、最先端のスポーツ科学と医学でトップアスリートを支えています。ここで得られたデータや知見は、全国のコーチや選手に共有され、地方のジャンプ台と首都圏の研究施設が一体となって日本の競技力を押し上げています。
番組の最後には、間近に迫るミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックへの展望も描かれました。53歳になっても現役にこだわる葛西は、若手に技術を伝えながら自らも五輪の舞台を目指し続けています。小林も再び金メダルを狙う立場となり、スキージャンプ日本代表は“世界最強ジャンパー団”として次の頂点を見つめています。
札幌から長野、そして北京へ。どん底と栄光を何度もくぐり抜けた日本ジャンプの歴史は、今も下川町の小さなジャンプ台と、東京の巨大なトレーニングセンターから静かに続いています。「這い上がれ」という番組タイトルの通り、この物語は終わりではなく、次の世代へ受け継がれるジャンプ日本の“現在進行形”なのだと感じさせてくれる内容でした。
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