最後の舞台に刻まれた音と生き方の物語
このページでは『おとなのEテレタイムマシン選 最後の舞台〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜(2026年2月21日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
盲目の三味線弾きとして人生を歩んだ 高橋竹山。
雪深い津軽で生まれた音は、晩年になっても静かに、そして力強く響き続けました。
番組では、1998年に残された貴重なインタビューや関係者の証言から、竹山が抱き続けた思いと 津軽三味線 の深い背景が語られていきます。
「最後の舞台〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜」とは
この回では、津軽三味線の第一人者として知られる 高橋竹山 が、人生の終わりに差しかかりながらも舞台に立ち続ける姿が映し出されます。
番組は、1998年2月に亡くなる直前のインタビューや、その周りで彼を支えた人たちの証言を中心に構成されています。
「名人の技」だけでなく、一人の人間としての揺れや迷い、そして覚悟まで映し出しているのが特徴です。
アーカイブをリマスターして届ける今回の放送は、当時リアルタイムで見られなかった世代にとっても、津軽三味線 の原点と深さに触れられる貴重な機会になっています。
盲目の三味線弾き・高橋竹山の生涯と津軽の風雪
高橋竹山 は、1910年に青森県の中平内村小湊(現在の平内町)に生まれました。幼いころにはしかを患い、2歳前後で目がほとんど見えなくなってしまいます。
学校にもほとんど通えず、生活の道を探す中で出会ったのが 津軽三味線 です。
14〜15歳のころ、盲目の門付け芸人に弟子入りし、家々を回って三味線を弾きながら生活する「門付け」の旅に出ます。雪深い津軽から北海道まで、吹雪の中を歩き、音だけを頼りに人々の前に立つ日々でした。
戦後になると、津軽民謡の名人・成田雲竹の伴奏者として声がかかります。ここで竹山は、民謡のリズムと言葉に合わせながら、自分なりのフレーズや音の揺らぎを編み出していきます。
やがて彼の三味線は、ただの伴奏ではなく「一曲として聴かせる音」になっていきました。
一地方の芸能だった 津軽三味線 を、全国区の音楽へと押し上げたのが竹山だと言われています。東京・渋谷の小劇場ジァン・ジァンで定期公演を重ね、三味線を「独奏楽器」として確立していったという点でも、日本の音楽史のなかで特別な存在です。
番組の中でも、竹山の生涯は「津軽の風雪の歴史」と重ねて語られます。厳しい自然、貧しさ、差別、戦争。そうした時代の重さを抱えながらも、音だけは前に進み続けた人の物語として、視聴者に迫ってきます。
晩年の日々と「最後の舞台」に挑む高橋竹山
ETV特集「最後の舞台」は、80代に入った竹山の晩年の日々をじっくり追いかけたドキュメンタリーです。
体力は落ち、指も若いころのようには動きません。
それでも竹山は、三味線を抱えて舞台に立つことをやめません。
カメラは、日常の静かな時間も丁寧に映しています。
稽古場での練習、家での生活、外出先での表情。
どの場面にも、長い年月を共にしてきた三味線が寄り添っています。
ここで印象的なのは、竹山が「うまく弾く」ことよりも、「今の自分にできる音を、最後まで聴いてもらうこと」に重きを置いているように見えるところです。
名人と言われた人が、老いを隠さず、そのまま舞台に立つ。
その姿勢そのものが、ひとつの挑戦になっています。
背景として、津軽三味線の世界では、長年の修行があたりまえのように語られます。
竹山自身も、「十年ではまだまだ。二十年、三十年と続けて、やっと見えてくるものがある」と語っていたことが紹介されます。
この価値観は、いまの「すぐに結果を求める時代」とは真逆です。
だからこそ、画面越しに見ている私たちの心にも、強い説得力を持って届いてきます。
死の直前インタビューで語られた音と生き方の哲学
番組の核になっているのが、亡くなる直前に行われた 高橋竹山 へのインタビューです。
そこでは、技術論だけではない「音との付き合い方」が静かに語られます。
若いころ、門付けで一軒一軒の家を回りながら弾いていたとき、人々は三味線の音を、暮らしの中のささやかな楽しみとして受け止めていたこと。
戦後、民謡ブームで大きな舞台に立つようになっても、「お客さんの前で弾く」という原点は変わらなかったこと。
竹山は、三味線を「自分を支えてくれた相棒」のように語ります。
華やかな言葉を使うのではなく、ひとつひとつの経験を振り返りながら、
「音でしか伝えられないことがある」
そんな思いをにじませるような受け答えです。
インタビューの中で語られるのは、自分の人生を振り返る言葉であると同時に、これから三味線を続ける後の世代に向けられたメッセージでもあります。
・何年続けても、楽器はますます難しくなること
・だからこそ、あきらめずに続けること
・今できる演奏を、そのままお客さんに見せること
こうした言葉は、楽器を弾かない人にとっても、仕事や人生そのものに通じるヒントとして胸に残ります。
関係者の証言が描く、高橋竹山の素顔と人間味
番組では、長年竹山のそばにいた人たちの証言も、大切な要素として使われています。
演奏を間近で見てきた関係者は、竹山の厳しさと優しさの両方を語ります。
舞台に立つ以上、音には一切妥協しない。
けれど、弟子や仲間に向ける言葉には、どこかユーモアと温かさがあったこと。
また、津軽の雪深い土地で育った竹山の「根っこ」についても触れられます。
冬の吹雪、貧しさ、人々の暮らし。
そうしたものがそのまま音になり、三味線のフレーズとなっている、という見方です。
この「土地と音のつながり」は、津軽三味線という音楽を理解するうえで、とても大事な視点です。
津軽民謡は、農作業の合間や酒盛りの場で自然に歌われてきたもので、三味線はその場を支える楽器でした。
竹山は、その場の空気をまるごと三味線に込めるようにして、独奏のスタイルを作り上げていったと言えます。
番組の証言パートを通して、「名人」という肩書きの裏側にある、人としての迷いや弱さも浮かび上がってきます。
それがあるからこそ、晩年の演奏は、技巧を越えた深い味わいとして心に残るのだと感じさせられます。
今あらためて高橋竹山を観る意味と、津軽三味線が残したもの
今回の「おとなのEテレタイムマシン選」で、1998年の ETV特集「最後の舞台〜津軽三味線・高橋竹山の挑戦〜」 がリマスター放送されるのは、単なる懐かし番組の再放送ではありません。
私たちが今生きている時代は、音楽も動画も、一瞬で大量に消費されていきます。
その中で、「一人の音楽家が、80年以上の時間をかけて音を磨き続けた」という事実は、とても重く、貴重です。
津軽三味線 は、今では国内外のコンサートホールでも演奏されるポピュラーな和楽器になりました。
しかし、それがここまで広く知られるようになった背景には、雪の中を歩き、門付けをし、小さな舞台からコツコツと音を届け続けた人たちの歴史があります。
その象徴が 高橋竹山 なのだと、番組を通してあらためて実感できます。
番組を見終えたとき、視聴者の胸に残るのは、派手なパフォーマンスではなく、
「人はどれだけ年を重ねても、挑戦をやめなくていい」
という静かなメッセージかもしれません。
三味線をやっている人だけでなく、毎日をがんばって生きているすべての人にとって、この45分は、自分の歩みを見つめ直す時間になってくれるはずです。
【民謡魂】ふるさとの唄 宮城県岩沼市で響く津軽三味線と東北民謡 南部手踊りの舞台|2026年1月12日
津軽三味線が生まれた土地の力について

ここでは、青森県津軽地方の厳しい自然が、なぜあの力強い 津軽三味線 の音を生んだのかを、筆者の視点で少し紹介します。
冬の厳しさが育てた力強い音
津軽地方の冬は、とにかく雪と風が強い土地です。家の前が一晩で雪に埋まり、外に出るにも苦労するような環境が当たり前でした。そうした中で三味線を弾く人たちは、吹雪の音にも負けないような、しっかりと響く音を作り出していきました。強く弾く奏法は、この土地での暮らしそのものから生まれた特徴です。
盲目の旅芸人が歩いた雪道
昔の津軽には、家々を回って演奏をする盲目の旅芸人が多くいました。雪深い道を歩き、見えない景色の中で人の声や足音を頼りに進んでいく生活でした。音だけを頼りにする日々は、自然と耳の感覚を育て、三味線の音に深い表情を与える力につながっていきました。
暮らしと音が寄り添った文化
津軽では、三味線は特別な場だけで弾く楽器ではありませんでした。農作業の合間や集まりの席など、暮らしの中のあちこちに音がありました。厳しい自然と向き合いながら暮らす人たちにとって、三味線は心を支える存在でもあり、その音は時に励まし、時に寄り添うものになりました。
この三つの要素が重なり合い、津軽地方ならではの太くて響きのある三味線の音が生まれたのだと感じます。
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