2つの町を結んだ「商人」の物語
豪華な天主で知られる安土城と、八幡堀の風景が美しい近江八幡。一見すると別々の観光地ですが、実は安土城下で暮らしていた商人や職人の移住によって深く結ばれています。
『ブラタモリ 織田・豊臣の“まちづくり”SP 幻の安土城・歴史香る近江八幡(2026年7月11日放送)』では、織田信長と豊臣秀次が町に込めた考えに迫ります。
城だけでなく、人や物が動く仕組みに目を向けると、2つの町が今も人を引きつける理由が見えてきます。
この記事でわかること
- 安土城下の人々が近江八幡へ移った理由
- 信長と秀次の町づくりの違い
- 八幡堀が商業を支えた仕組み
- 現地を歩く前に確認したい見どころ
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安土城下の商人はなぜ近江八幡へ移ったのか

(出典:安土城は日本初の近世城郭だった!?ー超入門!お城セミナー【歴史】)
結論からいうと、信長の死後に力を失った安土城下町の機能を、新しく造る近江八幡の城下町へ引き継ぐためです。
織田信長は1576年に安土城の築城を始め、1579年には天主が完成したとされています。しかし、1582年の本能寺の変で信長が亡くなった後、安土城の天主や本丸は焼失しました。
城を中心に栄えていた町は、政治の中心を失います。
その後、豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀次が近江を治めることになり、1585年に八幡山城とその城下町を築き始めました。
秀次は、何もないところから商業都市を育てようとしたわけではありません。安土城下で商売やものづくりをしていた人々を、新しい城下町へ移住させました。
町には建物だけでなく、商人の経験、職人の技術、取引先とのつながりも必要です。
たしかにこれは気になります。城下町を移すというと、家や店だけを移動させるように思えますが、実際には町を動かしていた人と商売の仕組みをまとめて受け継ぐ政策だったと考えるとわかりやすいでしょう。
織田信長は安土にどんな町を造ろうとしたのか
信長が安土に造ろうとしたのは、城を守るためだけの町ではありません。
政治の中心である城の周囲に商人や職人を集め、物資や情報が行き交う新しい都市を目指していました。
その代表的な政策として知られているのが楽市楽座です。
当時の市場では、特定の商人組織が営業権を持ち、税や細かな決まりが設けられていることがありました。楽市楽座は、そうした制限を緩め、より多くの人が商売に参加しやすい環境をつくる政策です。
さらに安土は、京都や東国へ向かう陸路に近く、琵琶湖の水運も利用できる場所でした。
現在の道路交通を基準に考えると見落としやすいのですが、重い荷物を大量に運ぶうえで、水上交通は非常に重要でした。琵琶湖を利用すれば、米や木材などの物資を船で運べます。
信長が安土を選んだ背景には、城からの眺めや守りやすさだけでなく、人、物、情報を集められる立地があったのです。
個人的には、安土城の本当のすごさは天主の派手さだけではないと感じます。政治の拠点、商業の中心、交通の結節点をひとつの場所にまとめようとしたところに、信長の大きな構想が表れています。
安土城が「幻の城」と呼ばれるのはなぜか
安土城は、完成からわずか数年で主要な建物を失いました。
現在は天主そのものが残っておらず、石垣、礎石、道などから当時の姿を読み取ることになります。そのため、豪華な姿が記録に残りながら、建物の全体像には未解明の部分もある幻の城として語られてきました。
安土城の特徴として、よく挙げられるのが次の点です。
- 山頂に築かれた高層の天主
- 大規模な石垣
- 山麓から延びる幅の広い大手道
- 城内に設けられた家臣たちの屋敷
- 城と城下町を一体として考えた配置
中でも現地で印象に残りやすいのが大手道です。
大手道は山の斜面をまっすぐ上るように造られており、その両側には家臣の屋敷跡と伝わる区画があります。敵が攻めにくいことだけを優先した道とは違い、城の威厳を見せる空間だった可能性も考えられます。
初めて知ると少し驚きますが、安土城は単なる戦闘施設ではありません。訪れた人に信長の力や新しい秩序を感じさせる、政治的な舞台でもあったのでしょう。
なお、安土城跡では発掘調査と整備が続けられています。新しい調査によって、これまでの復元イメージが見直される可能性もあります。確定している事実と推定された姿を分けて見ることが、安土城を楽しむ大切なポイントです。
豊臣秀次は信長の町づくりをどう受け継いだのか
豊臣秀次の近江八幡には、信長の安土と共通する考え方が見られます。
商人や職人を集めたこと、商売をしやすくする政策を取り入れたこと、琵琶湖の水運を利用したことです。
ただし、安土と近江八幡は同じ町ではありません。
信長の安土が、天下統一へ向かう政治的な拠点として強い意味を持っていたのに対し、秀次の近江八幡では、人々が商売を続けられる実用的な都市の仕組みがよりはっきり見えます。
近江八幡の城下町には、縦横に道が通された計画的な町割りが設けられました。水はけをよくするための溝や、竹の管を利用した水道の仕組みもあったとされています。
また、現在の近江八幡には、安土城下と同じ名前を持つ町が残っています。
たとえば、小幡町、永原町、慈恩寺町などです。地名まで受け継がれていることからも、安土から人々がまとまって移り住んだ歴史が感じられます。
城がなくなれば町も終わると思いがちですが、近江八幡では城よりも町の仕組みが長く残りました。
個人的には、この点がいちばん大事だと感じます。秀次が八幡山城にいた期間は長くありません。それでも、商人が活動できる場所と仕組みを整えたことで、町はその後も成長していきました。
八幡堀は城を守るだけの堀ではなかった
近江八幡を象徴する八幡堀は、八幡山城と城下町を守るために造られた堀です。
ただし、その役割は防御だけではありませんでした。
八幡堀は琵琶湖とつながり、湖上を行き来する船を城下町へ呼び込む水路として利用されました。船が町へ入れば、荷物を運び込めるだけでなく、商人や旅人、各地の情報も集まります。
現代に置き換えるなら、町の中まで物流拠点と交通ターミナルを引き込んだようなものです。
秀次は湖を通る船を町に寄港させ、陸路を利用する商人にも近江八幡へ立ち寄らせようとしました。
八幡堀の周辺には商家や蔵が並び、荷物の積み降ろしや保管がしやすい環境が整えられていきます。
現在は静かな水面と白壁の建物が美しい観光地ですが、かつては物や人が忙しく行き交う、町の仕事場でもあったのです。
八幡堀を訪れるときは、景色を見るだけでなく、次のような場所に目を向けると理解が深まります。
- 船が行き来できる水路の幅
- 水辺に向かって設けられた石段
- 堀沿いに並ぶ蔵や町家
- 八幡山と城下町の位置関係
- 琵琶湖方面へ続く水の流れ
きれいな写真だけを見ると、昔から観光のために整えられたようにも感じます。しかし、実際には町の経済を動かすための実用的な水路でした。この視点で歩くと、同じ風景でも見え方が大きく変わります。
織田信長と豊臣秀次の町づくりは何が違うのか
2人の町づくりには、共通点と違いがあります。
| 比較する点 | 織田信長の安土 | 豊臣秀次の近江八幡 |
|---|---|---|
| 中心となる城 | 安土城 | 八幡山城 |
| 主な役割 | 政治・権力を示す拠点 | 商業都市を支える拠点 |
| 商業政策 | 楽市楽座などで商人を集める | 安土の商人を移し、楽市楽座を受け継ぐ |
| 交通 | 琵琶湖水運と陸路を利用 | 八幡堀を琵琶湖につなぎ船を城下へ導く |
| 現在残るもの | 石垣、大手道、礎石など | 八幡堀、町割り、町名、商家の町並み |
| 町のその後 | 信長の死後に中心地として衰退 | 城の廃止後も商人の町として発展 |
信長が新しい都市の形を示し、秀次がその考え方を別の土地で引き継ぎながら、より商業に適した仕組みへ整えたと見ることができます。
ただし、「信長より秀次の方が町づくりに優れていた」と単純に比べることはできません。
2人が置かれていた政治状況や、城に求められた役割が違うからです。
大切なのは、秀次が安土の町をそのままコピーしたのではなく、人材や制度を受け継ぎながら、八幡堀と計画的な町割りを組み合わせたことです。
城がなくなっても近江八幡が栄えた理由
八幡山城は、秀次が近江八幡を離れた後、1590年に廃城になったとされています。
それでも近江八幡の町は消えませんでした。
城がなくなった後も、次のようなものが残ったからです。
- 商売の経験を持つ人々
- 琵琶湖へつながる八幡堀
- 計画的に整えられた道路と町割り
- 商品を保管できる蔵や商家
- 各地へ出て商売をする人的なつながり
- 商人を受け入れる地域の仕組み
城下町は本来、城主や武士を支える役割を持っています。しかし近江八幡では、商人の活動を支える仕組みが強かったため、城を失っても経済活動を続けられました。
その後、近江八幡を拠点とする商人たちは各地へ進出し、地域外で商売をしながら本店や家族を近江に置く経営を広げていきます。
こうした人々が、後に八幡商人と呼ばれる存在へつながっていきました。
「近江商人」とひとまとめにされることもありますが、近江商人には地域ごとの集団があります。その中で近江八幡を拠点としたのが八幡商人です。
八幡堀だけが町を繁栄させたわけではありません。
水運、町割り、商人の経験、信用を大切にする文化が重なったことで、近江八幡は長く商業都市として生き続けたのです。
今も残る安土から近江八幡へのつながり
安土と近江八幡の関係は、古い記録の中だけに残っているわけではありません。
現在の町にも、そのつながりを感じられるものがあります。
そのひとつが、安土城下と共通する町名です。町の名前が残ったことは、移住した人々が以前暮らしていた地域とのつながりを持ち続けた証しともいえます。
もうひとつは、日牟禮八幡宮で行われる左義長祭です。
左義長祭は、安土城下から八幡城下へ移った人々によって伝えられたとされ、信長との関係も語り継がれています。
建物や道路だけでなく、祭りや地域の記憶も町と一緒に移ったと考えると、歴史が急に身近に感じられます。
人が移れば、食べ物、習慣、信仰、祭りも移ります。
安土から近江八幡への移住は、単なる人口移動ではなく、町の文化を受け渡す出来事でもあったのです。
安土城跡で確認したい見どころ
安土城跡では、復元された天主を見るのではなく、残された地形や石垣から城の姿を想像します。
特に確認したいのは次の場所です。
大手道
山麓から延びる直線的な石段です。道幅や傾斜を見ると、城に入る人へ強い印象を与える構造だったことがわかります。
家臣の屋敷跡と伝わる区画
大手道の周辺には、羽柴秀吉や前田利家などの屋敷跡と伝わる場所があります。ただし、伝承と発掘調査で確認された事実がすべて一致するとは限りません。
天主台跡
天主が建っていた場所です。建物はありませんが、石垣や礎石、山頂からの眺めによって、城の規模や立地を実感できます。
摠見寺跡
信長が城内に建立した寺院の跡です。城が政治や軍事だけでなく、宗教的な意味も持つ空間だったことを考える手がかりになります。
安土城跡は山城のため、階段や坂道が続きます。雨の日や雨上がりには石段が滑りやすくなることがあります。
実際に訪れるなら、歩きやすい靴、飲み物、暑さや雨への備えは確認したいところです。入山できる時間や料金、発掘・整備に伴う通行状況も、出発前に最新情報を確認しておくと安心です。
近江八幡で町づくりを感じられる場所
近江八幡では、八幡堀だけでなく、城、町、商業の関係がわかる場所を組み合わせて歩くのがおすすめです。
八幡堀
水路と商家、蔵の位置関係を見ながら歩くと、堀が物流に使われていたことを想像しやすくなります。
八幡山城跡
八幡山ロープウェーを利用すると、山頂近くまで約4分で上がれます。山頂から城下町や琵琶湖、西の湖を眺めると、秀次がこの場所を選んだ理由を地形から考えられます。
日牟禮八幡宮
八幡商人の信仰を集めてきた神社です。八幡堀やロープウェー乗り場から近いため、あわせて立ち寄りやすい場所です。
旧市街の町並み
碁盤目状の道路、町家、商家の建物などから、城下町の骨格を確認できます。現在も暮らしが続く地域なので、私有地への立ち入りや住民への配慮は欠かせません。
安土城跡と近江八幡は同じ日に回ることもできますが、安土城跡は歩く時間と体力が必要です。
近江八幡でも八幡堀、旧市街、八幡山城跡まで見ると、想像以上に時間がかかります。歴史をじっくり味わうなら、予定を詰め込みすぎず、それぞれに半日程度を考えておくと動きやすいでしょう。
2つの町を歩くと見えてくるもの
安土城と近江八幡を結んでいるのは、織田家から豊臣家へ移った権力だけではありません。
安土で暮らしていた商人や職人、その人々が持っていた技術、商売の経験、祭りや地域の記憶も近江八幡へ受け継がれました。
信長は安土に人と物が集まる新しい都市を構想し、秀次はその土台を受け継ぎながら、八幡堀を中心とした商業都市を整えました。
そして近江八幡は、城がなくなった後も商人の町として生き続けます。
城を見る旅というと、石垣や天主に目が向きがちです。しかし、そこで暮らした人がどこへ移り、何を次の町へ残したのかまで考えると、歴史は点ではなく線として見えてきます。
安土で始まった町づくりが、近江八幡でどのように受け継がれたのか。
この視点を持って現地を歩けば、石垣や堀、町名、祭りのひとつひとつが、以前とは少し違って見えるはずです。
参考リンク
- 近江八幡市「豊臣秀次の思い出」
- 近江八幡市公式観光情報サイト「豊臣秀次について」
- 近江八幡市公式観光情報サイト「八幡堀について」
- 滋賀県「特別史跡安土城跡整備基本計画」
- 近江八幡市「近世都市の先駆け 六角・信長・秀次の城と城下の歴史文化」
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