結束が温泉街を変えた黒川温泉の奇跡
2025年5月10日放送の『新プロジェクトX〜挑戦者たち〜』では、熊本・阿蘇の山間に位置する黒川温泉が舞台となりました。かつて人々に見向きもされなかった寂れた温泉地が、どうやって全国に名をとどろかせる観光地へと生まれ変わったのか。その裏側には、若者たちの苦悩と挑戦、そしてひとりの変わり者の強い信念がありました。番組では、町全体の努力と絆が実を結んだ過程を、丁寧に描いていました。
誰もが夢を諦めかけた山間の温泉地
昭和40年代から50年代にかけて、日本中は旅行ブームの熱気に包まれていました。団体旅行が盛んになり、多くの観光地がにぎわっていた中、熊本県南小国町にある黒川温泉はその波に乗れませんでした。黒川温泉は山間の静かな地域にあり、もともと農家の人々が日常的に通う湯治場として知られていました。観光地というより、地元の人のための場所だったのです。
当時の旅館では、宿泊客が座敷で宴会を開くことが主な目的で、温泉そのものの魅力はほとんど注目されていませんでした。お風呂も家庭的で、設備に力を入れている宿は少なく、観光客を呼び込めるような特徴がありませんでした。
そんな環境の中で育った松崎郁洋さんは、「ここでは将来が見えない」と感じ、一度は地元を離れ福岡の大学に進学しました。けれど、時代はオイルショックの真っただ中。多くの企業が採用を控え、就職先が見つからず、結局は黒川へ戻ることになりました。進学しても夢がかなわず、望まぬ形で家業の旅館を継ぐことになったのです。
地元に戻っても、明るい未来は見えませんでした。後藤健吾さんも同じように、望まない形で地元に戻ったひとりでした。ふたりは同世代で、境遇も似ており、将来への不安を語り合うことが日課のようになっていました。気持ちを切り替えようと、ほかの同世代の2代目旅館主たちと一緒に、ソフトボールに打ち込む日々が始まりました。プレーすることで少しでもストレスを忘れようとしていたのです。
この頃の黒川温泉は、以下のような厳しい状況でした。
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温泉街としての知名度がほぼ無かった
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設備投資の余裕がなく、施設が古かった
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宿泊客の多くが地元の宴会目的
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観光客を惹きつける要素が少なかった
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若者は地元を離れ、戻る者は仕事に希望を持てなかった
それでも、彼らは「どうにかしたい」という思いを心のどこかに抱えながら、毎日を過ごしていました。黒川温泉は、まさに夢を諦めかけた若者たちが集う、静かな行き止まりのような場所だったのです。しかし、そんな彼らの中に、やがて「変革の種」が芽生え始めることになります。
洞窟風呂の男・後藤哲也との出会い
どの宿も閑古鳥が鳴くような状況が続いていた黒川温泉で、仲間内でひときわ注目されていた旅館がありました。なぜかその宿だけ、常に予約で埋まっていたのです。観光客が集まらないこの場所で、それは不思議でなりませんでした。その旅館を営んでいたのが、後藤哲也さんでした。
哲也さんは、年配の旅館主たちからは「変わり者」と呼ばれていました。誰もが古い慣習の中で経営を続ける中、彼だけがまったく違う視点から旅館作りに挑んでいたのです。彼の旅館には、黒川のどの宿にもない設備がありました。それが、洞窟風呂と露天風呂でした。見た目のインパクトだけでなく、風呂に入ったときの自然との一体感が、訪れた人の心を掴んでいたのです。
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洞窟風呂は裏山を10年かけて掘り抜いた手作りの湯船
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湯気と自然光が差し込む幻想的な空間が評判に
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他の旅館では見られない独自のデザインと演出
この風呂を自力で完成させるまで、哲也さんは20代のころから京都などを訪れては、庭づくりや建築様式を独学で研究してきました。お金や設備に頼るのではなく、“田舎の持つ力”を最大限に生かすことこそが癒しになると信じていたのです。その信念に従い、ノミと金槌を手に、山を少しずつ掘り進めるという作業を、毎日続けてきました。
やがてその噂を聞いた小笠原和男さんは、「なぜあの旅館だけ客が入っているのか」を探ろうと、哲也さんの手伝いを申し出ました。すると哲也さんは、驚くほどあっさりと風呂づくりのコツを惜しみなく教えてくれました。普通なら秘密にしてもおかしくない技術でしたが、哲也さんは誰よりも“仲間”を大事にしていたのです。
小笠原さんは学んだ通りに、翌年、自らの宿に風呂を作りました。完成後、客足が目に見えて増えたのです。口コミも広がり、これまでとは違う層の宿泊客が黒川に訪れるようになりました。この変化を目の当たりにした松崎郁洋さんや後藤健吾さんも、「自分たちも動き出さなくては」と心を決めました。
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後藤哲也さんは風呂づくりに一切の妥協をしなかった
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材料選びからデザインまで、自分の手で仕上げた
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伝統と自然の融合を大切にした哲学が他と一線を画していた
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教えを受けた2代目たちが少しずつ行動を起こし始めた
この頃から、黒川温泉の風向きがゆっくりと変わり始めたのです。まだ目に見える成果は少なかったものの、町の中に「変われるかもしれない」という期待が、少しずつ芽生えていきました。哲也さんの存在が、静かに、しかし確かに周囲の意識を動かし始めていたのです。
景観づくりと仲間の結束
松崎郁洋さんは、何度もお見合いを重ねた末にようやく結婚が決まり、「これから家族を守っていくには、安定した暮らしが必要だ」という強い思いを抱いていました。将来のために旅館を立て直さなくてはならないという責任感が、行動の原動力になっていたのです。同じように、黒川温泉の旅館を継いだ2代目たちも、それぞれに家庭を持ちはじめ、生活を支えるためには地域全体の再生が欠かせないと感じるようになっていきました。
そんな中、後藤哲也さんは町の印象を大きく変えるためには「田舎らしい景観」を徹底してつくり込むことが重要だと説きました。派手な看板や新しい建物ではなく、自然と調和した静けさや落ち着きが、本当の癒しにつながるという考えです。特に後藤健吾さんは、自分の旅館の古びたトタン屋根に悩みを持っており、その相談に哲也さんは「木を植えて風景そのものを変えていく」という方法を教えました。
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トタン屋根はあえてそのままにし、見せ方を変える
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山から木を選び、庭や周囲に自然な形で植栽
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無理な建て替えではなく、自然を取り込んだ再設計
哲也さんは、どの木を選べばよいか、どう植えれば風情が出るかといった細かいところまで一緒に山に入りながら指導しました。この取り組みは、健吾さんだけでなく、他の旅館主たちにも広がっていきました。仲間たちは旅館周辺に木を植えることから再生への一歩を踏み出したのです。
初めは一本、二本と控えめだった植栽も、年を追うごとに数を増やし、2年、3年と経つうちに町全体が緑に包まれた温泉街へと姿を変えていきました。夏は深い緑、秋は紅葉、冬には雪景色が旅館と調和し、訪れた人の目に印象深く残るようになったのです。
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自然と一体化した町並みが新しい観光資源に
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町全体に統一感が生まれ、歩くだけで癒される空間に
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景観への配慮が、客に「また来たい」と思わせる力に
こうして、若い旅館主たちは景観づくりを通して互いに助け合い、町全体で魅力を高めていくという意識が育っていきました。派手さはなくても、心から落ち着ける空間。それを仲間と一緒に築き上げるという取り組みが、黒川温泉の“静かな革命”の大きな柱となっていったのです。
露天風呂手形という逆転の発想
黒川温泉がさらに大きな転機を迎えたのは、「入湯手形」の発案と実現によるものでした。それまで、宿ごとの集客は設備の充実度に左右される傾向があり、露天風呂を持たない宿はどうしても不利な立場に置かれていました。そんな中、松崎郁洋さんの妻・久美子さんのある一言が、大きなヒントとなりました。
「泊まった宿に露天風呂がなくても、他の宿でお風呂に入れたら嬉しい」
この気づきが、温泉という資源を町全体で共有するという画期的な発想につながったのです。これまでは各旅館が独立して集客を競っていましたが、「黒川温泉という地域全体でもてなす」という考え方へと、視点が大きく転換された瞬間でした。
もちろん、すぐに受け入れられたわけではありません。他の旅館からは以下のような反発の声が上がりました。
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自分の宿の湯を他人に開放するのは損ではないか
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他人の客が来てトラブルになるのではといった不安
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管理の手間が増えることへの懸念
それでも松崎さんは、諦めることなく会合のたびに丁寧に説明と説得を続けました。繰り返し意見を交わす中で、後藤哲也さんが「進むのが一緒なら、苦労するのも一緒」という言葉を投げかけました。この言葉が、温泉街全体の心を大きく揺さぶることになります。
徐々に空気が変わり、ついに黒川温泉に「入湯手形」が導入されることが決定しました。最初は3軒の旅館からスタートし、好きな3つの露天風呂を巡れるというシステムが観光客にとって新鮮で魅力的なサービスとなりました。
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手形は木札を模したデザインで、旅の記念にも好評
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各宿のスタンプを集める楽しさもあり、観光要素がアップ
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宿を越えて交流が生まれ、温泉街に活気が戻るきっかけに
導入初年度には6,000枚を売り上げ、温泉街に新たな客層が流れ込み始めました。その後もじわじわと人気が広がり、5年後には売上枚数が6万枚に達し、宿泊客は年間20万人へと急増。単なるサービスではなく、「黒川温泉らしさ」を象徴する仕組みとして定着していきました。
この成功の背景には、町全体が一つのチームとして観光客を迎え入れるという意識の変化がありました。ひとつの宿だけが頑張るのではなく、皆で協力することで温泉街としての価値が高まり、客の満足度も自然と向上したのです。
入湯手形は、黒川温泉が他の観光地と一線を画す「地域連携の象徴」となり、今なお多くの人に愛され続けています。
この仕組みは、地方観光の新たなモデルケースとして、全国各地から視察が訪れるほどの注目を集めることになりました。
困難に立ち向かう3代目世代の挑戦
2003年、黒川温泉の宿泊者数は年間およそ40万人にまで達し、かつての寂れた温泉地は全国的な観光地へと成長しました。入湯手形の仕組みも定着し、多くの観光客が“温泉めぐり”を楽しむようになり、地域は活気にあふれていました。しかし、その順調な歩みは、やがて思わぬ壁に直面します。
手形が人気を集めた結果、「せっかく買ったのに希望する旅館の風呂に入れなかった」という苦情が次第に増えていきました。観光客の増加に施設のキャパシティが追いつかず、「おもてなしの質」が保てなくなる危機に直面したのです。さらには、管理体制やルールの整備に遅れが生じ、宿同士の間でも対応の違いが顕著になり始めました。
このような中、平成28年(2016年)に熊本地震が発生。黒川温泉は深刻な打撃を受け、観光客の姿が一夜にして消えてしまいました。さらに追い打ちをかけたのが、2020年から始まったコロナ禍。長期にわたる休業や自粛要請により、収入がゼロに近づく旅館も相次ぎ、町全体が未曽有の危機に陥りました。
こうした困難の中、動き出したのが3代目世代の若者たちです。松崎郁洋さんの娘・祐子さんは、熊本市内のホテル勤務を辞めて地元へ戻り、旅館業を継ぐことを決意。さらに、後藤健吾さんの娘・麻友さんも大学院を辞め、家業に携わる道を選びました。彼女たちは、かつての両親たちと同じように、「黒川を守りたい」という一心で集まってきたのです。
中でもリーダー役を担ったのが、北里有紀さんでした。有紀さんは、哲也さんから受けた言葉「1日1回、自分の旅館を正面から見なさい」を胸に刻み、日々の仕事を見直しながら行動を始めました。観光客が消えた今こそ、地元を深く知り、未来に繋がる仕組みを考える時間にしようと呼びかけたのです。
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手形でスタンプラリーや卓球イベントなど新しい試みを実施
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地元食材や歴史を学び直すワークショップを開催
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SNSを活用し、若者目線で黒川の魅力を発信
最初のうちは思うような成果が出ず、焦りや不安が募る日々が続きました。しかし、仲間同士で支え合いながら続けた取り組みの中で、彼らはある重大な気づきを得ました。それは、先代たちが本当に残したものは、施設や仕組みではなく、「地域全体で手を取り合って生きていく文化」そのものだったということです。
「一軒の努力では黒川は輝かない。皆で協力しなければ未来はない」
その哲学が、今の黒川温泉の土台となっており、世代を超えて確かに受け継がれていたのです。彼らの挑戦は、単なる再建ではなく、町そのものを未来につなぐための深い学びと再確認の時間となりました。
こうして3代目たちは、再び黒川温泉を支える新しい柱となり、困難の中から希望をつなぐ力を見いだしていきました。地域の人々が信頼し合い、連携する姿勢があったからこそ、次の時代へのバトンは確かに手渡されたのです。
そして今も、黒川には人が集まる
2025年の春、かつて若者たちが植えた木々は立派に育ち、訪れる観光客を迎え入れています。現在、黒川温泉は年間30万人が宿泊する人気温泉地として定着しました。松崎さんと久美子さんの家は、いまでは大家族となり、娘の祐子さんも子育てをしながら旅館を守っています。
後藤哲也さんは86歳で亡くなるまで、町の木々を手入れし続けたといいます。彼が遺した「黒川は僕の故郷。その故郷を外から来た人に褒めてもらえる。それが人生で一番の喜びじゃ」という言葉は、いまも町の人々の心に生き続けています。
小さな山間の温泉地を変えたのは、変化を恐れず、仲間と共に歩んだ人々の結束と情熱でした。黒川温泉の物語は、これからも語り継がれていくに違いありません。
ご感想や黒川温泉に行った体験があれば、ぜひコメント欄で教えてください。
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