森繁久彌が語る「放浪の青春」 昭和という時代を歩いた言葉の重み
このページでは『おとなのEテレタイムマシン わたしの自叙伝 森繁久彌〜放浪の青春〜(2025年12月16日放送予定)』の内容を分かりやすくまとめています。
国民的俳優として知られる森繁久彌が、自身の人生の出発点となった若き日々を振り返るこの回は、華やかな成功談ではなく、迷いと模索の時間に正面から向き合う内容です。
昭和の芸能界を代表する存在が、どのような経験を積み重ねて今の姿にたどり着いたのか。その過程を知ることで、作品や言葉の見え方も変わってきます。
NHKアーカイブでよみがえる1981年放送「わたしの自叙伝」
今回の放送は、1981年1月15日にNHKで放送された『わたしの自叙伝』をリマスターしたものです。
NHKが長年にわたって蓄積してきたアーカイブの中でも、このシリーズは「本人の語り」を中心に構成されている点が特徴です。
森繁久彌自身が、過去を脚色せず、淡々と、しかし深い実感をこめて語る言葉は、時代を越えて伝わってきます。映像の新しさ以上に、語りの内容そのものが強く印象に残る番組です。
国民的俳優・森繁久彌の原点と昭和芸能界での立ち位置
森繁久彌は1913年、大阪に生まれました。
俳優として広く知られる存在ですが、その歩みは映画だけにとどまりません。戦前は演劇や放送の世界で経験を積み、戦後になると映画、舞台、テレビ、ラジオ、歌、エッセイと、表現の場を次々に広げていきました。ひとつの分野に収まらず、時代の変化に合わせて活動の幅を広げていった点は、昭和の芸能界でも特に際立っています。
戦後の映画界で大きな転機となったのが、1950年代以降に出演した『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』です。
会社経営者や庶民的な人物を演じながら、笑いの中に人間らしさや弱さをにじませる演技は、多くの観客の共感を集めました。これらの作品は、当時の日本社会や暮らしを映し出す大衆映画として長く親しまれ、森繁久彌の名前を「国民的俳優」として定着させていきます。
一方で、舞台の世界でも存在感は圧倒的でした。
ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』では900回以上にわたって主演を務め、映画とは異なる生身の表現力で観客を魅了します。商業映画のスターでありながら、舞台俳優としても第一線に立ち続けた点は、昭和のエンターテインメント史の中でも特筆すべき部分です。
テレビやラジオでも、森繁久彌の語り口は多くの人に親しまれました。
軽妙でありながら、どこか人生の重みを感じさせる言葉は、ただ面白いだけでは終わらず、聞く人の記憶に残ります。喜劇俳優という枠に収まらず、演技派としても高く評価されてきた理由は、こうした多面的な表現力にありました。
晩年には文化勲章を受章し、その死後には国民栄誉賞が贈られています。
これは一時代の人気者だったからではなく、昭和という激動の時代を通じて、日本の芸能と向き合い続けてきた姿勢そのものが評価された結果です。
森繁久彌は、昭和芸能界の中心にいながら、常に一歩引いた視点で人と時代を見つめ続けた存在だったと言えます。
NHKアナウンサーとして旧満州に渡った若き日の経験
森繁久彌は、早稲田大学在学中から演劇に親しみ、表現することへの関心を深めていきました。その後、1939年(昭和14年)にNHKのアナウンサー試験に合格し、赴任先として選ばれたのが旧満州でした。
俳優として知られる後年の姿からは想像しにくいですが、彼の社会人としての出発点は「声で伝える仕事」だったのです。
当時27歳前後での満州赴任は、戦時下という時代背景もあり、非常に特殊な環境でした。
満州ではNHKの放送局に勤務し、日々の放送業務を担当します。ただ原稿を読むだけでなく、現地の状況を伝える役割も担い、土地の空気や人々の暮らしを肌で感じる日々を過ごしました。
放送の仕事に加えて、取材やラジオドラマの制作にも関わり、活動範囲は決して狭いものではありませんでした。
移動しながら仕事をすることも多く、広い地域を巡る中で、多様な人々や価値観に触れたとされています。安定した日常とは程遠い環境の中で、言葉の力、人に伝えることの重みを実感していった時期でもありました。
この旧満州での経験は、のちに俳優として歩む森繁久彌の土台になっていきます。
人間の強さや弱さ、時代に翻弄される姿を間近で見てきたことが、その後の演技や語りに深みを与えました。
「放浪の青春」という言葉には、単なる若さや自由ではなく、行き場の定まらない時代の中で自分を探し続けた、この満州時代の記憶が色濃く重なっています。
戦争と敗戦を経て見つめ直した人生と表現への思い
旧満州でNHKアナウンサーとして勤務していた森繁久彌は、戦争の終結とともに、想像を超える過酷な現実に直面します。
秩序が一気に崩れ、街の空気が変わっていく中で、日常は一瞬にして失われました。ソ連軍の侵攻による混乱のなか、身近な人が命を落とす場面を目の当たりにするなど、若い彼にとってその体験はあまりにも重いものでした。
家族とともに引き揚げるまでの時間は、生き延びること自体が最大の課題となる日々でした。
言葉では整理しきれない恐怖、不安、そして喪失感。そうした感情を抱えたまま日本へ戻った経験は、森繁久彌の人生観を大きく変えていきます。
それまで当たり前だと思っていた価値観や将来像は、一度すべて白紙になったとも言える状況でした。
この戦争末期から敗戦にかけての体験は、その後の表現活動の根底に強く影を落とします。
後年、喜劇俳優として多くの笑いを届ける一方で、森繁久彌の演技には、どこか現実を直視したような重みや、人間の弱さを見つめる視線がありました。
単に明るく振る舞うのではなく、笑いの中に人生の苦さや切なさをにじませる表現は、この時期を抜きにして語ることはできません。
敗戦を経て日本に戻った彼は、あらためて「人はなぜ表現するのか」「何を伝えるべきなのか」を考えるようになります。
ただ楽しませるだけではなく、生きてきた実感をどう舞台や映画に落とし込むのか。その問いが、俳優としての姿勢をより深いものへと導いていきました。
戦争という時代の痛みや、人間の多面性を体験として知っていたからこそ、森繁久彌は喜劇というジャンルにおいても、表面的な笑いだけにとどまらない存在になっていきます。
この番組で語られる「放浪の青春」には、若さの自由さだけでなく、敗戦を境に人生と表現を見つめ直した、静かな覚悟が込められています。
戦後帰国から映画デビューまでの道のり
敗戦後、旧満州から家族とともに日本へ引き揚げた森繁久彌を待っていたのは、落ち着いた生活や確かな仕事ではありませんでした。
戦後の日本は物資も娯楽も不足し、芸能の世界も再出発の途上にありました。その中で彼は、まず舞台やラジオの仕事を通じて、俳優としての歩みを再開していきます。生きるために、そして表現を続けるために、与えられた仕事を一つひとつ積み重ねていく時期でした。
1947年、昭和22年に映画『女優』でスクリーンデビューを果たします。
この作品は、後年の華やかなイメージとは異なり、俳優としての出発点にあたる静かな一歩でした。まだ「スター」と呼ばれる存在ではなく、映画の現場で役と向き合いながら、自分の立ち位置を探っていた段階だったと言えます。
戦争体験を経て帰国した森繁久彌にとって、演技は単なる仕事ではありませんでした。
人はなぜ生きるのか、なぜ笑うのか。そうした問いを胸に抱えながら、役を演じることで自分自身を確かめていくような時間が続きます。その姿勢は、徐々に映画界でも評価されていきました。
1950年代に入ると、映画での出演機会が増え、やがて『社長シリーズ』『駅前シリーズ』といった喜劇映画で広く知られる存在になります。
ここで見せる自然な間合いや人間味のある表現は、舞台で培った演技力と、戦後の厳しい時代を生き抜いてきた実感が合わさったものでした。
舞台、ラジオ、映画、そしてのちにはテレビへと活動の場を広げながら、森繁久彌は戦後の日本映画界で確かな地位を築いていきます。
戦争と混乱をくぐり抜けた経験を土台に、喜劇という形で人々の日常に寄り添う存在へと変わっていった、その過程こそが、この時期の最大の特徴です。
「社長シリーズ」「駅前シリーズ」につながる喜劇俳優としての芽生え
戦後の日本映画界で、森繁久彌は次第に「笑い」を担う存在として注目されるようになります。
それまでの舞台やラジオ、シリアスな役柄で培ってきた表現力が、喜劇という形で少しずつ結実していった時期でした。決して最初からコメディ一色だったわけではなく、人間の弱さや滑稽さをどう演じるかを模索し続けた結果として、そのスタイルが形づくられていきます。
1956年から始まった『社長シリーズ』は、その転機となる作品群です。
会社経営者という立場にありながら、完璧ではなく、どこか抜けていて人間臭い社長像を演じることで、観客の共感を集めました。威張るだけの人物ではなく、失敗し、悩み、それでも前に進もうとする姿が、当時のサラリーマンや庶民の感覚と重なっていきます。
シリーズ全体のテンポの良さやユーモアは、森繁久彌の間の取り方や声の使い方に大きく支えられていました。
続く『駅前シリーズ』では、舞台を「駅前」という誰にとっても身近な場所に移し、より庶民的な世界が描かれます。
森繁久彌に加え、伴淳三郎やフランキー堺といった個性豊かな俳優たちが顔をそろえ、日常の中で起こる小さな騒動を笑いに変えていきました。
ここでの笑いは派手なものではなく、暮らしの中にあるズレや人情から生まれるものです。その中心にいたのが、自然体で場をまとめる森繁久彌の存在でした。
これらのシリーズを通して、森繁久彌は単なる主演俳優ではなく、「喜劇そのものを象徴する顔」として大衆に受け入れられていきます。
笑わせるだけでなく、どこか切なさや温かさを残す演技は、戦争や混乱の時代を生き抜いてきた経験が土台にありました。だからこそ、軽い笑いに終わらず、観終わったあとに余韻が残る喜劇になっていたのです。
『社長シリーズ』『駅前シリーズ』で確立された喜劇俳優としての姿は、森繁久彌の人生そのものと深く結びついています。
放浪のような青春、戦争体験、戦後の再出発。そうした積み重ねが、庶民の笑いと人情を描く喜劇へとつながり、昭和の映画史に欠かせない存在へと押し上げていきました。
まとめ
『わたしの自叙伝 森繁久彌〜放浪の青春〜』は、成功した俳優の回顧録ではなく、一人の人間が時代に翻弄されながらも表現を続けてきた記録です。
昭和という激動の時代を生き抜いた森繁久彌の言葉は、今の時代にも静かに問いかけてきます。
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