火災都市・江戸を救った人たち
このページでは『歴史探偵(2026年1月7日放送)』の内容をもとに、江戸がなぜ「火災都市」と呼ばれたのか、そしてその中で活躍した火消たちが、どのように町を守ってきたのかをたどります。明暦の大火という未曽有の災害から、制度づくり、現場の戦い方、町づくりの工夫までを追うことで、江戸の防災がどのように進化したのかが見えてきます。
明暦の大火で何が起きたのか
1657年に起きた明暦の大火は、江戸の歴史の中でも最大級の火災として知られています。火事は1日で終わらず、複数日にわたって燃え続けました。火元は現在の本郷付近とされ、出火からわずか数時間で広い範囲が焼失しました。
この大火の特徴は、火が一度弱まったように見えても、別の場所で再び火災が起きた点です。最初の火は隅田川の河口付近まで達しましたが、その後も小石川や麹町などで新たな出火があり、江戸城に向かって燃え広がりました。
当日は強い風が吹いていたとされ、最大で秒速20メートル近い風速だったと推定されています。木造家屋が密集する江戸では、火の粉が飛び、屋根から屋根へと一気に火が移りました。
被害は江戸市中の約6割に及び、犠牲者は5万人から10万人とも言われていますが、正確な数はわかっていません。両国の回向院には供養塔が建てられ、大火で亡くなった人々の名前が刻まれています。番組では、数字を断定せず、史料ごとの違いをそのまま伝えていました。
この大火は、江戸が火災都市と呼ばれるようになった決定的な出来事でした。
なぜ江戸は燃えやすかったのか
江戸が火事に弱かった理由は、建物が木造だったからだけではありません。まず大きな要因として挙げられるのが風です。強風の日には火の粉が遠くまで飛び、消火が追いつかないまま延焼が進みました。
次に、町の密集構造です。町人地では家と家の間が狭く、道幅も十分ではありませんでした。そのため、火が燃え移るのを止める余地がほとんどありませんでした。
三つ目は、出火が同時多発することです。一か所の火事であれば対応できても、時間差で別の場所から火が出ると、人手も道具も分散してしまいます。
さらに、当時の社会事情も背景にありました。番組では、放火が多かったことが紹介されています。火事のあとには家を建て直す必要があり、建築の仕事が増えます。結果として、仕事に困っていた人が救われる側面もありました。この点は、火をつける行為を正当化するものではなく、当時の都市が抱えていた現実として語られていました。
こうした条件が重なり、江戸では「戦よりも火事のほうが恐ろしい」と感じられるほど、火災が最大の脅威となっていたのです。
火消の仕組みはどう変わったのか
明暦の大火が起きた当時、江戸の消防制度は十分とは言えませんでした。主に武家屋敷を守る大名火消が中心で、町人の暮らす地域までは守りきれなかったのです。
この反省から、翌年には定火消が設けられました。定火消の詰め所では、火事に備えて男たちが常に待機し、出火の知らせがあるとすぐに動ける体制が取られました。
しかし、定火消だけでは江戸全体を守ることはできませんでした。そこで整えられたのが町火消です。大岡忠相のもと、江戸の町は細かく区域分けされ、隅田川の西側に48組、東側に16組の火消が配置されました。
町火消の担い手は、鳶や大工などの町人でした。普段はそれぞれの仕事をしながら、火事が起きれば出動します。報酬はほとんどなく、費用は町費でまかなわれました。
この仕組みは、江戸の人々が自分たちの町を自分たちで守るという意識を強め、火消の力を町全体で支える基盤となっていきました。
火消の現場はどう戦ったのか
火事場でまず目を引くのがまといです。火消が現場に入った証として屋根の上に掲げられ、遠くからでも確認できる目印でした。ひらひらした部分は馬簾と呼ばれ、火の粉から身を守る役割もありました。
当時の消火の中心は破壊消火です。燃えている家を水で消すよりも、周囲の建物を壊して火の通り道を断ち切る方法が重視されました。木造家屋が密集する江戸では、延焼を止めるために欠かせない判断でした。
火消たちは重さ約10キロの刺し子半纏を身に着けて現場に入りました。重くても、火の粉や熱から体を守るために必要な装備でした。
番組で紹介された道具の一つが龍吐水です。西洋の技術をもとに作られたポンプで、龍が水を吐くように見えることからこの名が付けられました。大量の水で火を消すというより、屋根などに水をかけて延焼を防ぐ役割を担っていました。
こうした工夫を積み重ね、町火消は約半世紀で1万人規模にまで強化されていきました。
大火に強い町づくりと火消ネットワーク
番組の後半では、火消の活躍だけでなく、町そのものを火に強くする取り組みが描かれました。
吉原では、遊郭で働く人たちが火消を組織し、自分たちの地域を守っていました。橋のたもとで働く髪結いは、幕府から橋専門の消火を命じられ、橋火消として活動しました。
こうした役割分担があることで、火事が起きた際の初動が早くなりました。
また、延焼を防ぐために道幅を広げた広小路が整備されました。火が一気に広がるのを防ぐための、町づくりの工夫です。
さらに、加賀藩は腕の立つ江戸の町火消をスカウトし、その技を取り入れました。こうして受け継がれた技は、現在も加賀鳶として、消防団の訓練やはしご上りに残されています。
大火に立ち向かったのは特別な存在ではなく、町で働く人たちでした。制度、装備、町づくりが重なり合い、江戸は火災に立ち向かう力を少しずつ育てていったのです。
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