- 浪江町で約100年続いた原田時計店
- 原発事故で全住民が避難した浪江町と、今の町の姿
- 二本松市の新しい住宅地で再スタートした原田時計店
- 昭和40年代の浪江町と十日市祭、新町商店街のにぎわい
- いわき市・葛尾村など各地に散らばった元住民を訪ねて
- 木材の町から原発立地へ 原田家3代が見た浪江の変化
- 跡地になった原田時計店と、残された家に込められた家族の思い
- 再生する浪江町と、実現しなかった「仮の町構想」の現実
- つくばに店を構えた4代目と、聞き書きで残そうとする15年の記録
- 二本松に家を建てた人たちの「帰らない」という選択
- 千葉・松戸の「ともにいきる会」と、弱くなっていくつながり
- 再開5軒になった新町商店街と、それでも前を向く人たちの声
- 二本松のお茶会で歌われる「ふるさと浪江」と、変わった涙の意味
- 桜並木の手入れに込められた浪江への願いと、これからの時間
- 気になる生活ナビをもっと見る
浪江町で約100年続いた原田時計店
福島県の沿岸部にある浪江町には、約100年の歴史を持つ小さな店がありました。
それが、時計やメガネ、カメラ、宝飾品、補聴器まで扱ってきた原田時計店です。
今回の明日をまもるナビは、この原田時計店の3代目である原田雄一さんを軸に、震災と原発事故、そして長い避難生活の中で「時間」と「故郷」がどう変わっていったのかを追いかけます。
店が生まれたのは大正時代。
まだ腕時計が高級品だった時代から、町の人たちは冠婚葬祭のたびにこの店を訪れ、時計を買い、メガネを作り、記念日の贈り物を選んできました。
やがて、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きます。
町の人と同じように、店もまた、ある日を境に「故郷から切り離された存在」になってしまいました。
番組は、原田さんが今も各地の元住民を訪ね歩き、壊れてしまった時間を少しでもつなぎ直そうとする姿を、静かにたどっていきます。
原発事故で全住民が避難した浪江町と、今の町の姿
浪江町は福島県の最東端、太平洋に面した町です。震災前は約2万1千人が暮らし、農業や水産業、サービス業が主な産業でした。
2011年の原子力発電所事故で、町内全域に避難指示が出され、住民は全国各地へ避難しました。
その後、放射線量の低いエリアから順番に避難指示が解除され、2017年には町の中心部の多くで生活ができるようになりましたが、町の面積のおよそ8割はいまも帰還困難区域を抱えています。
現在、浪江町に戻って暮らしている人は震災前の1割強程度とされています。
夜になると、明かりの少ない通りも多く、震災前のにぎわいを知る人ほど、そのギャップに胸が痛くなる風景です。
番組では、こうした町の現状を数字だけでなく、原田さんや元住民の言葉を通して描いていました。
「町が戻った」と言うにはまだ遠いけれど、「何もない場所」でもない。
その微妙な状態こそが、今の浪江のリアルな姿です。
二本松市の新しい住宅地で再スタートした原田時計店
原田時計店が再出発した場所は、福島第一原子力発電所からおよそ60キロ離れた二本松市の新しい住宅地です。
県が沿岸部の自治体などから避難してきた人のために整備したエリアで、およそ260人ほどが暮らしています。
浪江町で長く商売をしてきた原田さんは、この地で店を開いて9年目を迎えていました。
看板には「時計・メガネ・カメラ・補聴器」と書かれていますが、実際は客の要望に合わせて品ぞろえを増やしてきた、何でも相談できる店です。
店に来るのは、浪江町に店があった頃からの顔なじみが中心です。
「浪江ではお世話になったから」「あの店がまだやっていると聞いて安心した」
そんな気持ちで、車で時間をかけて訪ねてくる人も少なくありません。
背景として、震災後、福島県内では沿岸部から中通り・会津地方へ避難した人が多く、新たな住宅地とともに商店も移転してきました。
原田時計店もその一つで、「生活の拠点は変わっても、店との関係は切らない」という住民の思いを背負って営業を続けています。
昭和40年代の浪江町と十日市祭、新町商店街のにぎわい
番組では、昭和40年代の浪江町の様子も振り返られていました。
当時の浪江は、海と山に囲まれた自然豊かな町でありながら、新町商店街には人と車がひっきりなしに行き交っていました。
中でも大きな行事が、毎年冬に開かれる十日市祭です。
新町通りには最大で約300の露店が並び、近隣の村や町から人が集まって歩行者天国のようなにぎわいになっていました。
十日市祭は、明治時代に浪江神社周辺で始まった市がルーツとされ、秋の収穫を祝い、冬に向けて生活必需品を揃える場でもありました。
番組で映された古い映像には、子どもたちの笑い声や、焼き鳥の煙、風船を持った家族連れの姿が残っていて、「ここに確かに暮らしがあった」ということを静かに伝えていました。
原田時計店も、この商店街の一角で店を構えていました。
人が行き交う音、時計の秒針の音、商店街のアーケードに響くアナウンス。
そうした音の積み重ねが「浪江で生きる時間」そのものだったのだと、改めて感じさせてくれる場面でした。
いわき市・葛尾村など各地に散らばった元住民を訪ねて
原田さんは、毎週火曜日になると店を閉め、車で福島県内各地を回っています。
目的は、避難先で暮らす元の客の家を訪ね、メガネや補聴器のメンテナンスをすることです。
この日はまず、いわき市に住む吉田信雄さんの家へ。
補聴器の汚れを丁寧に取り除き、音がはっきり聞こえるように調整していきます。
手入れと電池交換を合わせて料金は2000円ほど。
移動時間や人件費を考えると決して割に合う仕事ではありません。
それでも原田さんは、「自分が売ったものに最後まで責任を持つのは当たり前」と話します。
補聴器は、特に高齢の人にとって、家族の会話やテレビの音を支える大事な道具です。
音が聞こえづらくなると、人は外出を控えがちになり、孤立しやすくなることが研究でも指摘されています。
次に向かったのは葛尾村です。
葛尾村は一時期、全村避難となりましたが、2016年に一部の避難指示が解除され、住民の帰還が始まりました。
そこで暮らす半澤富二雄さんは、原発事故後、比較的早い時期に村へ戻った一人です。
しかし、奥さんを含め、集落の多くの人は戻っておらず、集落の家の多くは空き家になっています。
半澤さんは、「生活が落ち着いたから、みんなもうここには来なくなった。地区の良さを伝えたいけれど難しい」と、複雑な胸の内を語っていました。
原田さんが各地を回る姿は、ただの訪問販売ではありません。
バラバラになった人と人のつながりを、細い糸でもいいからつなぎ直そうとする、長い時間の積み重ねなのだと感じさせられます。
木材の町から原発立地へ 原田家3代が見た浪江の変化
福島県の沿岸部には、明治から大正にかけて鉄道が敷かれ、山から切り出した木材を運ぶ拠点として発展してきた地域が多くあります。
浪江町もその一つで、阿武隈山系からの木材を港へ運ぶ中継地として栄えました。
原田さんの祖父・雄順さんは、この時代に時計店を立ち上げ、その後、父の和夫さんへと受け継がれました。
昭和40年代には、新町商店街の賑わいとともに原田時計店も成長し、隣町の双葉町や大熊町で原子力発電所が建設されたことで、人の流れはさらに増えていきました。
この頃、店の年間売上は2億円を超えるまでになり、商業誌に取り上げられるほどの存在になっていきます。
それでも原田さんは、ただの成功した商売人という顔だけではありませんでした。
自ら商店街の中心メンバーとして、イベントの企画や地域づくりにも積極的に関わり、「町全体で盛り上がろう」と声を上げ続けてきました。
原発については「危険だと言われていたけれど、自分が生きている間は大丈夫だと思っていた」と振り返ります。
その言葉には、当時、多くの住民が共有していた感覚がにじんでいました。
跡地になった原田時計店と、残された家に込められた家族の思い
番組の中で、原田さん夫妻が何度も足を運ぶ場所があります。
それは、かつて原田時計店があった浪江町の新町商店街の一角です。
店は解体され、今は更地になっていますが、住宅部分はそのまま残されています。
この日は妻のアキイさんと一緒に、家の片付けをしていました。
家を残している大きな理由は、現在、避難先の高齢者施設で暮らしている原田さんの母親の存在です。
「家はそのままにしておいてほしい」という母の思いを尊重しながらも、アキイさんの胸の内は揺れ続けています。
「義母の気持ちも分かるんです。
でも、私としては『もうここには戻れないよ』と言いたい自分もいる。
悲しいけれど、それも現実で…。その間で気持ちが行ったり来たりしてしまうんです」
空き家問題や、親世代の思いと子世代の現実とのギャップは、全国の被災地でも共通するテーマです。
この家も、その象徴のように見えました。
再生する浪江町と、実現しなかった「仮の町構想」の現実
浪江町では、駅周辺を中心に、新しい商業施設や交流施設の整備が進んでいます。
さらに、沿岸部には最先端の水素エネルギー拠点や研究施設が整備される国家プロジェクトも動いており、「新しい産業の町」としての姿を描こうとしています。
実は原田さんも、震災直後から、復興のビジョンを住民と一緒に考えてきた一人です。
原発事故から半年後には、避難先の二本松市で十日市祭を開催しようと呼びかけ、バラバラになった商店街の仲間と共に、避難先で「仮の浪江」を作ろうとしました。
さらに進んだアイデアが、いわゆる「仮の町構想」です。
どこかに新しい街区を作り、浪江の人たちがそこでまとまって暮らし、いつか全員で故郷に帰ろうという計画でした。
早稲田大学の佐藤名誉教授は、番組の中でこう語ります。
計画そのものは大きな希望だったけれど、現実には、賠償金の支払いもあり、住民それぞれが自分の生活の再建を急がなければならなかった。
待てる人と待てない人が生まれ、時間が経つほど「もうここで暮らそう」という選択が増えていった、と。
町の復興政策や法律の枠組みだけでは、個人の人生まで束ねきれない。
そのギャップが「仮の町構想」が実現しなかった背景に、静かに横たわっています。
つくばに店を構えた4代目と、聞き書きで残そうとする15年の記録
原田時計店には、4代目として店を継ぐ予定だった義理の息子がいました。
しかし、彼が時計店を構えた場所は浪江町ではなく茨城県つくば市でした。
人がまだほとんど戻っていない浪江で店を続けるのは難しい。
そう判断したうえでの選択でした。
つくば市は研究学園都市として発展してきた地域で、人口も多く、新しい店を始めるには現実的な場所でもあります。
一方で原田さんは、時計店の仕事とは別に、新しい取り組みを始めています。
それが、震災から15年の間に出会った人たちの話を一人ずつ聞いて記録していくことです。
「新しい町づくりを頑張ることも大事。
でも、その裏側で、帰りたくても帰れなかった人がいたということを忘れてほしくない」
ノートに残されていく言葉は、どれも短くて素朴ですが、その一つ一つが「普通の暮らしが突然奪われた」という事実を物語っています。
記録を残すことは、時計店の3代目として「時間を扱う仕事」をしてきた原田さんなりの、復興への向き合い方にも見えました。
二本松に家を建てた人たちの「帰らない」という選択
番組の後半では、「もう浪江には戻らない」と決めた人の声も描かれていました。
二本松市に避難し、11年前に家を建てた酒井さん夫婦です。
決断の理由の一つは、浪江での「隣近所の当たり前の付き合い」が途切れてしまったことでした。
避難先では、新しいご近所付き合いが生まれ、子どもや孫の暮らしもその土地に根付き始めています。
「浪江は大事なふるさとだけど、生活はもうここにある」
その言葉には、どちらか一方を選ぶしかなかった苦しさと、それでも前を向こうとする覚悟の両方がにじんでいました。
震災後、福島県では県外避難も含め、多くの人が新しい家を建て直しています。
住宅ローンや子どもの進学先、仕事の事情を考えると、「いつか元の町へ」という思いだけでは動けない現実があります。
酒井さん夫婦の選択は、その象徴のような存在として描かれていました。
千葉・松戸の「ともにいきる会」と、弱くなっていくつながり
原田さんが訪ねたもう一人が、千葉県松戸市で活動する森川さんです。
森川さんは、浪江町からの避難者で、首都圏に避難した人たちを支える「ともにいきる会」という団体を立ち上げてきました。
震災直後、森川さんは松戸に住む息子さんの家に避難し、その後、松戸駅前のマンションで新たな生活を始めました。
同じように避難してきた浪江の人たちが孤立しないようにと、交流会や相談会、お茶会などを続けてきました。
月に1度開かれる「ともにいきる会」では、手作りの手芸品を並べて販売し、そのあとお茶を飲みながらおしゃべりを楽しみます。
かつては50人ほど集まっていた仲間も、今は10人ほどに減ってしまいました。
時間がたつにつれて、避難者どうしのつながりはどうしても弱くなっていきます。
仕事や家庭の事情が変わり、遠くに引っ越した人も増えています。
それでも森川さんは、少人数になっても続けることに意味があると感じているようでした。
「ここに来ると、ふるさとの話ができる。それがうれしいんだよね」
そんな言葉が、画面越しにもはっきりと伝わってきました。
再開5軒になった新町商店街と、それでも前を向く人たちの声
原田さんは、浪江に向かうたびに必ず新町商店街を歩きます。
震災前は30軒以上の店が軒を連ねていた商店街ですが、今、営業を再開している店は5軒ほどになりました。
商店会は、この4月で解散することを決めていました。
呉服店の店主は、「だんだん歯抜けになっていくのを目の当たりにすると、本当に寂しい。これからどうしたらいいか分からない」と率直な不安を語ります。
一方、浪江に戻って新たに店を構えた人もいます。
「前とはやり方を変えないと続かない。震災前の感覚のままでは無理だと分かったから」と話し、オンライン販売や新しい商品開発などに取り組んでいました。
同じ商店街の中でも、「これからもここで挑戦する人」と「店をたたむことを考える人」が混在しています。
番組は、そのどちらかを良い悪いで語るのではなく、「それぞれの選択」として淡々と描いていたのが印象的でした。
二本松のお茶会で歌われる「ふるさと浪江」と、変わった涙の意味
二本松市では、月に1度、浪江から避難してきた人たちのお茶会が開かれています。
おしゃべりや手仕事を楽しんだあと、最後に必ず歌われるのが「ふるさと浪江」という歌です。
原発事故のあと、この歌を歌うたびに、涙が止まらなかったという人が大勢いました。
しかし今は、「涙が出なくなってしまった」と話す人がいます。
「もう、あきらめてしまったからかな」
その一言には、長い年月の中で変わってしまった感情の流れが、そのまま詰まっていました。
ふるさとを思う気持ちは消えていない。
ただ、「戻れないかもしれない」という現実を受け入れていく中で、涙の意味も少しずつ変わっていったのだと思わされます。
桜並木の手入れに込められた浪江への願いと、これからの時間
番組のラストは、浪江町の桜並木の様子でした。
この並木は、約30年前に原田さんが中心となって植え、住民と一緒に育ててきたものです。
原発事故で活動は一度途切れましたが、今は新しい住民も加わり、毎年春を迎える前に枝の手入れが続けられています。
原田さんは、並木の下で空を見上げながらこう語りました。
「上を見ていると、この15年に震災があったのかどうか分からなくなる。
みんながここに住んでいるみたいな気持ちになるんです。こんな気持ちになったのは初めてです」
桜は、毎年同じ場所で花を咲かせます。
そこに人が住んでいても、いなくても、時間だけは淡々と流れていきます。
その中で、人はそれぞれの場所で新しい暮らしを作り、同時にふるさとへの思いも抱え続けています。
原田さんの目に映る桜は、失われた時間を嘆くだけでなく、「これからの時間をどう生きるか」を静かに問いかけているようでした。
この回の明日をまもるナビは、復興の「成功例」だけを並べるのではなく、帰る人、帰らない人、戻りたくても戻れなかった人。
その全ての選択を丁寧にすくい取りながら、浪江町と原田時計店の100年に寄り添う内容になっていました。
読者としても、「もし自分だったらどんな選択をするだろう」と、つい画面の向こう側に自分を重ねてしまうような、深い時間の旅だったと思います。
NHK【明日をまもるナビ(180)】能登半島地震2年 人口減少の中での復興|輪島市の子ども支援とごちゃまるクリニック、関係人口の力|2025年12月14日
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