新宿駅長と出かせぎの歌が映す昭和の働き方
石川正三さんと安部英康さんは、どちらも高度経済成長期の日本を支えた現場の人です。
『時をかけるテレビ 池上彰 ある人生 新宿駅長・出かせぎの歌(2026年6月19日)』でも取り上げられ注目されています 。
巨大化する新宿駅で混雑と向き合った駅長と、岩手から東京の工事現場へ通った出稼ぎ農民。
2人の人生をたどると、便利な都市の裏側にあった働く人の苦労や、地方と東京の大きな差が見えてきます。
この記事でわかること
・石川正三さんがどんな新宿駅長だったのか
・1960年代の新宿駅がなぜ過酷だったのか
・安部英康さんと「出かせぎの歌」の意味
・三ちゃん農業や高度経済成長期の背景
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石川正三とは誰?1967年の新宿駅長が注目された理由
石川正三さんは、1960年代の国鉄新宿駅で駅長を務めた人物です。
当時の新宿駅は、今のような巨大ターミナルへ変わっていく途中でした。駅の周辺では再開発が進み、通勤客も乗り換え客も増え続け、駅は毎日ものすごい人であふれていました。
石川さんが注目される理由は、ただ「大きな駅の駅長だったから」ではありません。
人があふれる駅で、事故を起こさず、電車を動かし、職員をまとめ、乗客の不満にも向き合っていたからです。
駅長というと、事務室にいて指示を出す偉い人を想像するかもしれません。
でも石川さんは、朝のラッシュ時にはホームに立ち、混雑の流れを見ながら現場で判断していました。
当時の新宿駅は、職員や学生アルバイトを含めて多くの人が働く巨大な職場でした。
列車の本数も多く、乗客の流れも速く、少し判断を間違えるだけで大きな混乱につながります。
石川さんの仕事は、駅を管理するだけではなく、人の命を守りながら都市の流れを止めないことでした。
そこに、昭和の現場リーダーらしい重みがあります。
石川さんは高等小学校卒で、最初からエリート街道を歩いた人ではありません。若いころは駅の清掃のような仕事も経験し、現場を知り尽くしていました。
だからこそ、机上の理屈だけでなく、駅員の動き、乗客の心理、混雑の危険を肌でわかっていたのだと思います。
当時の国鉄には、学歴による見方の違いもありました。
しかし石川さんは、現場で積み重ねた経験と判断力で、新宿駅長という重責を担っていました。
この人物が今あらためて気になるのは、便利な社会を支えていたのが、名前の知られていない現場の人たちだったとわかるからです。

新宿駅長はなぜ大変だった?高度経済成長期の過密ダイヤと混雑
1960年代の新宿駅が大変だった理由は、東京の成長が一気に進んでいたからです。
高度経済成長期の東京には、仕事を求めて多くの人が集まりました。会社、工場、学校、商業施設が増え、毎朝と毎夕、鉄道に人が集中しました。
新宿駅は、山手線、中央線、私鉄、地下鉄などが集まる場所です。
つまり、東京の西側から都心へ向かう人、都心から郊外へ戻る人、別の路線へ乗り換える人が、一気に押し寄せる場所でした。
当時の中央線は、朝の時間帯に非常に短い間隔で列車が来ていました。
電車が着くたびに大量の乗客が降り、別の乗客が乗ります。
停車時間が短い中で、駅員は乗客を誘導し、階段や改札の流れを見ながら、危険が出ないように調整していました。
ここで大切なのは、混雑は単なる「人が多い」という話ではないことです。
人が多すぎる駅では、次のような危険があります。
・ホームから人が落ちる
・階段で将棋倒しになる
・ドアに挟まれる
・列車の遅れが次々に広がる
・乗客のいらだちが苦情やトラブルになる
駅長は、こうした危険を常に考えながら動いていました。
石川さんが特に重視していたのは、乗客にけがをさせないことです。
電車を時間通りに動かすことも大切ですが、それ以上に人命が大切です。
駅の混雑を見ながら、改札や階段の流れを止めたり、ホーム上の人の動きを調整したりする判断が求められました。
1960年代の新宿駅は、都市の成長そのものを表す場所でした。
東京が便利になり、ビルが建ち、会社が増え、人が集まる。
その一方で、駅の現場には負担が集中していました。
今の新宿駅も巨大で複雑ですが、自動改札、防犯カメラ、案内表示、ホームドア、スマホの乗換案内などがあります。
当時は、今ほど設備が整っていません。
だからこそ、人の目、人の判断、人の体力で支える部分が大きかったのです。
石川さんの姿を見ると、巨大都市の便利さは、見えない緊張感の上に成り立っていたとわかります。
安部英康とは誰?出かせぎの歌に込められた暮らしと苦しさ
安部英康さんは、岩手の山間部に生まれ、東京の建設現場で働いた出稼ぎ農民です。
出稼ぎとは、ふだん暮らしている地域では十分な収入が得られないため、一定期間だけ別の地域へ働きに行くことです。
安部さんの場合、故郷には家族と農業がありました。
しかし、農業だけでは暮らしを支えるのが難しく、東京の工事現場で働く必要がありました。
ここでつらいのは、ただ肉体労働が厳しいというだけではありません。
家族と離れて暮らすこと。
子どもの成長をそばで見られないこと。
故郷の農作業が気になっても、東京で働き続けなければならないこと。
働いても働いても、生活がなかなか楽にならないこと。
安部さんは、その苦しさや寂しさを歌にしました。
この「歌」は、きれいごとの詩ではありません。
出稼ぎ先の飯場の暮らし、東京での孤独、家族への思い、農業で生きたいという願いが込められています。
安部さんがすごいのは、苦しい生活の中でも、自分の気持ちを言葉にして残したことです。
東京の建設現場では、多くの人が働き、ビルや道路が作られていきました。
でも、その一人ひとりの名前や人生は、都市の完成とともに見えにくくなります。
安部さんの歌は、その見えにくくなった人生をすくい上げるものです。
「自分はここにいた」
「家族のために働いていた」
「本当は農業で生きたかった」
そうした声が、歌の中に残っています。
高度経済成長期は、日本が豊かになった時代として語られます。
しかし、その豊かさの裏側には、家族と離れて働く人、故郷を守る人、都会の工事現場で体を酷使する人がいました。
安部英康さんの人生は、そのことを静かに教えてくれます。
出かせぎの歌とは?岩手から東京へ向かった農民たちの背景
出かせぎの歌は、出稼ぎ農民の苦しさや希望を映した言葉です。
1960年代の日本では、東京や大阪などの都市がどんどん発展しました。
ビルが建ち、道路が整備され、鉄道や工場も広がっていきました。
その工事現場を支えたのが、地方から来た労働者たちです。
なかでも東北地方などの農村からは、冬場や農閑期に多くの人が都市へ働きに出ました。
農業だけでは現金収入が少なく、家族を養うためには出稼ぎが必要だったからです。
出稼ぎは、今でいう単身赴任に近い面もあります。
ただし、当時の労働環境はかなり厳しいものでした。
住む場所は狭く、食事も十分とは言えず、仕事は体力勝負。
朝から夕方まで工事現場で働き、さらに残業をして少しでも多く稼ぐ人もいました。
ここで見えてくるのは、都市と地方の差です。
東京ではビルが建ち、街が大きくなっていく。
一方で、地方では働き手がいなくなり、残された家族が農業や家のことを支えていました。
つまり、東京の成長は東京だけで完結していたわけではありません。
地方から来た人たちの労働によって支えられていました。
出かせぎの歌が心に残るのは、数字では見えない苦しさを言葉にしているからです。
「何人が出稼ぎに行った」
「どれだけビルが建った」
「経済が何%成長した」
こうした数字だけでは、人の気持ちはわかりません。
でも、安部さんの歌には、家族と離れる寂しさ、東京での孤独、農業で生きたいのに出稼ぎに出なければならない悔しさがあります。
だから、出かせぎの歌は単なる昔話ではありません。
働くこと、家族を守ること、地方で暮らすことの意味を考えさせる記録なのです。
三ちゃん農業とは?出稼ぎが地方の暮らしに与えた影響
三ちゃん農業とは、主に「じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん」が農業を支える状態を表す言葉です。
本来なら農家の中心となる男性が、出稼ぎや都市部の仕事に出てしまう。
そのため、家に残った高齢者と女性が農作業を担うようになる。
この状況を表したのが、三ちゃん農業です。
この言葉には、少し軽い響きがあります。
しかし実際には、かなり重い社会問題を含んでいます。
働き手が都市へ流れると、地方の農村には次のような変化が起きます。
・農作業をする人が足りなくなる
・高齢者や女性の負担が増える
・子どもが父親と過ごす時間が減る
・地域の行事や共同作業を担う人が減る
・若い世代が農業から離れやすくなる
出稼ぎは、家族を守るための選択でした。
しかし同時に、家族が離れて暮らす原因にもなりました。
安部英康さんのような人は、東京で働きながらも、心は故郷にありました。
牛のこと、田畑のこと、妻や子どものことを気にしながら働いていたのです。
これは、地方の暮らしが都市の成長に吸い上げられていたとも言えます。
高度経済成長期の日本では、都市に人・お金・仕事が集中しました。
その一方で、地方では人口が減り、農業の担い手が弱くなっていきました。
この構図は、今の日本にもつながっています。
現在も、東京への一極集中、地方の人口減少、農業の後継者不足は大きな課題です。
つまり、三ちゃん農業は昔の言葉でありながら、今の社会を考える手がかりにもなります。
「便利な都市」と「人が減る地方」は、別々の問題ではありません。
都市が発展するほど、地方から人が移り、地方の暮らしに負担が生まれる。
そのつながりを知ると、出稼ぎの問題がただの過去ではないことがわかります。
1960年代の東京と地方の格差は今とどう違うのか
1960年代の東京と地方の格差は、今よりも目に見えやすい形で存在していました。
東京ではビルが建ち、駅が混雑し、会社や工事現場に人が集まりました。
地方では農業だけでは十分に暮らせず、家族を養うために出稼ぎへ行く人がいました。
当時の格差は、仕事の量と現金収入の差として表れやすかったのです。
東京に行けば仕事がある。
地方に残ると現金収入が少ない。
だから、家族と離れてでも都市へ働きに行く。
この流れが、多くの家庭の暮らしを変えました。
では、今はどうでしょうか。
今も東京には仕事、大学、病院、企業、文化施設が集中しています。
地方では人口減少や高齢化が進み、働き手不足が深刻です。
ただ、1960年代と違う点もあります。
今はインターネットがあり、地方にいても情報を得やすくなりました。
リモートワークや地方移住という選択肢もあります。
高速道路や新幹線、空港も整い、昔より移動しやすくなっています。
それでも、東京への集中は続いています。
なぜなら、仕事や教育、医療、娯楽、人との出会いの多くが、まだ都市部に集まりやすいからです。
1960年代の新宿駅と出稼ぎ農民の姿を見ると、今の社会にも通じる問いが浮かびます。
便利な街は、誰の働きで成り立っているのか。
地方の暮らしをどう守るのか。
働く人の人生は、数字や成長の中で見えなくなっていないか。
石川正三さんは、都市の大動脈である新宿駅を支えました。
安部英康さんは、東京の建設現場で働きながら、故郷と家族を思い続けました。
2人はまったく違う場所にいたようで、実は同じ時代の中でつながっています。
一人は、増え続ける人の流れを駅で受け止めた人。
もう一人は、都市を作るために地方から出てきた人。
高度経済成長期の日本は、明るい未来へ進んでいた時代です。
でも、その足元には、眠れないほど責任を背負った駅長や、家族と離れて働いた出稼ぎ農民がいました。
だからこそ、このテーマはただ懐かしい昭和の話ではありません。
私たちが使う駅、住む街、働く場所、地方とのつながりを見直すきっかけになります。
便利さの裏側にいる人の存在に気づくことが、このテーマを深く読む一番の意味です。
出典リンク
・(ディモーラ)
・(TVでた蔵)
・(TVでた蔵)
・(東京工芸大学アーキテクチャ部門)
・(library.shinjuku.tokyo.jp)
・(ja.wikipedia.org)
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