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ハンセン病の強制隔離で家族はなぜ引き裂かれたのか?胎児標本問題と旧優生保護法、日高トシ子さんが伝えた母と子の記憶【時をかけるテレビで話題】

社会
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奪われた家族と消えなかった親子の絆

ハンセン病の歴史を知るとき、多くの人が驚くのは病気そのものではなく、強制隔離によって家族が引き裂かれてきた事実です。親子が離れ離れになり、結婚した夫婦が子どもを持つ権利を奪われるなど、長い間続いた差別と偏見は多くの人生を大きく変えました。

『時をかけるテレビ 池上彰 にっぽん家族の肖像 母と子 悲しみの淵から(2026年5月29日放送)』でも取り上げられ注目されています。

なぜ隔離政策は続いたのか。胎児標本の問題とは何なのか。そして家族を思い続けた人々は何を伝えようとしているのか。過去の出来事として終わらせず、今につながる人権や差別の問題として考えていきます。

この記事でわかること
ハンセン病と強制隔離政策が家族に与えた影響
・日高トシ子さんと「ももこ」に込められた母親の思い
・胎児標本や断種・堕胎問題の背景と旧優生保護法の関係
・差別の構造から私たちが学ぶべき教訓と課題

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(印刷用)

ハンセン病と強制隔離が家族を引き裂いた理由

ハンセン病は、かつて「こわい病気」と強く思われていました。しかし実際には、感染力はとても弱く、今では薬で治る病気です。早く見つけて正しく治療すれば、後遺症を残さずに治すこともできます。にもかかわらず、日本では長い間、患者を社会から切り離す強制隔離政策が続けられました。

この問題のつらさは、病気そのものだけではありません。

本当に深刻だったのは、病気になった人だけでなく、その家族まで「差別されるかもしれない」と恐れながら生きるようになったことです。家族に迷惑がかかるから帰れない。子どもが結婚や就職で不利になるかもしれない。近所に知られたら、家族全員が避けられるかもしれない。そうした不安が、親子や夫婦、きょうだいの関係を長く遠ざけました。

もともと家族は、困ったときに支え合う場所です。けれど、強制隔離はその家族の時間を奪いました。家で一緒に食卓を囲むこと、子どもの成長を見ること、親を看取ること、ふるさとで普通に暮らすこと。そうした当たり前の時間が、法律や社会の空気によって断ち切られてしまったのです。

ハンセン病問題を理解するときに大切なのは、「昔は医学が進んでいなかったから仕方なかった」と片づけないことです。治療薬ができたあとも隔離政策は続きました。1947年には薬による治療が可能になり始めたにもかかわらず、1953年には隔離を続ける法律が作られ、1996年まで廃止されませんでした。つまり、問題は病気の怖さだけではなく、誤った制度と差別意識が長く残り続けたことにあります。

ここで考えたいのは、「なぜ家族が引き裂かれたのか」です。

理由は大きく3つあります。

1つ目は、国の制度が患者を療養所に閉じ込める方向へ進んだことです。

2つ目は、社会の中に「ハンセン病は近づいてはいけない病気」という誤解が広がったことです。

3つ目は、患者本人が家族を守るために、自分から距離を置かざるを得なかったことです。

家族を愛しているからこそ、会えない。子どもを守りたいからこそ、母であることを名乗れない。このねじれた苦しみこそ、ハンセン病と強制隔離が残した大きな傷です。

日高トシ子さんが語る母と子の別れと「ももこ」への思い

日高トシ子さんの人生は、母と子の別れを通して、強制隔離がどれほど人の人生を変えてしまうのかを教えてくれます。

日高さんは若いころ、ハンセン病患者として療養所に入所しました。結婚し、子どもを授かりましたが、当時の療養所では患者が子どもを持つことが強く制限されていました。日高さんは2歳の息子と引き離され、さらにおなかにいた子どもを中絶させられました。

その子に日高さんがつけていた名前が「ももこ」です。

この名前には、日高さんの母としての思いが込められています。まだ抱くことも、一緒に暮らすこともできなかった子どもに、名前をつけていた。その事実だけで、日高さんがその命をどれほど大切に思っていたかが伝わってきます。

ここで大切なのは、「中絶させられた」という言葉の重さです。

それは本人が自由に選んだことではありません。療養所の中で、患者は結婚しても子どもを持つことを許されにくく、妊娠すれば中絶を求められる状況がありました。日高さんの場合、妊娠7か月という時期に、おなかの子を失うことになりました。これは身体だけでなく、心に消えない傷を残す出来事です。

さらに、日高さんは息子たちへの思いも抱え続けました。

一度は故郷の種子島に逃れ、家族で暮らそうとしました。しかし再び収容され、子どもと離れることになります。病気の後遺症や社会の差別を考え、子どもたちに迷惑がかからないよう、自分から距離を取った時期もありました。

母親なのに、母親としてそばにいられない。

会いたいのに、会うことで子どもが差別されるかもしれない。

これは、普通の親子げんかや家庭のすれ違いとはまったく違います。制度と偏見が、親子の間に見えない壁を作ったのです。

日高さんの物語が今も胸に残るのは、特別な悲劇だからではありません。むしろ、「母が子を思う気持ち」は誰にでもわかる、とても身近な感情だからです。その当たり前の気持ちが、社会の仕組みによって押しつぶされたことに、多くの人が言葉を失うのです。

『時をかけるテレビ 池上彰 にっぽん家族の肖像 母と子 悲しみの淵から』で再び注目されたのも、日高さんの人生が「過去のかわいそうな話」ではなく、家族とは何か、差別とは何かを今の私たちに問いかけているからです。

星塚敬愛園に残された胎児標本と供養をめぐる問題

星塚敬愛園は、鹿児島県にある国立ハンセン病療養所です。ここには、かつて強制隔離された人たちが暮らしてきました。番組で大きく取り上げられたのが、療養所に残されていた胎児標本の問題です。

全国の療養所などでは、ホルマリン漬けにされた胎児の標本が見つかりました。星塚敬愛園にも複数の胎児標本が残されており、その中には日高トシ子さんが中絶させられた子どもも含まれていました。

この問題が重いのは、単に「標本が残っていた」という話ではないからです。

本来なら、親に抱かれ、名前を呼ばれ、供養されるはずだった命です。しかし、その命は長い間、医療や管理の対象として扱われ、親と向き合う機会も奪われていました。

親にとって、わが子がどこにいるのかわからないことは、とても大きな苦しみです。亡くなったことを知っていても、きちんと別れを言えなければ、心の整理はできません。日高さんや同じ経験をした人たちが求めたのは、特別なことではありませんでした。

わが子と対面したい。

名前を呼びたい。

謝りたい。

供養したい。

その願いは、とても人間らしいものです。

しかし、供養を進めるには難しい問題もありました。胎児の親がわからない場合があるからです。誰の子どもなのか、どのような経緯で残されたのか、記録が十分でないケースもあります。そのため、対面や慰霊を進めるにも時間がかかりました。

ここで見えてくるのは、差別が人の死後の扱いにまで影響するということです。

生きている間に家族として扱われなかっただけでなく、亡くなった命までも長く「誰かの大切な子」として扱われにくかった。この事実は、ハンセン病問題の深さを物語っています。

供養とは、単に儀式をすることではありません。

「あなたは確かに生きていた」

「あなたは忘れられていない」

そう伝える行為です。

だからこそ、胎児標本の問題は、過去の整理ではなく、尊厳を取り戻すための大切な一歩です。日高さんが「ごめんなさい」と涙を流した場面は、母親としての後悔だけでなく、長い間奪われてきた親子の時間を取り戻そうとする姿でもありました。

断種・堕胎はなぜ行われたのか?旧優生保護法との関係

ハンセン病療養所で行われた断種堕胎を理解するには、旧優生保護法という法律を避けて通れません。

旧優生保護法は1948年に作られ、1996年まで続きました。この法律は、障害や病気のある人などに対して、本人の意思に反して不妊手術などを行う根拠とされました。2024年7月には、最高裁がこの法律を憲法違反と判断し、国の責任を認めました。

この法律の根底には、優生思想がありました。

優生思想とは、簡単に言えば「生まれてくる命を国や社会にとって都合がよいかどうかで選ぼうとする考え方」です。これは、人を能力や病気、障害の有無で分け、「生まれてよい命」「生まれないほうがよい命」のように扱う危険な考えです。

ハンセン病患者は、感染力が弱く、遺伝病でもないにもかかわらず、長い間「子どもを持つべきではない」と見なされました。これは医学的な正しさよりも、社会の偏見や制度の都合が優先された結果です。

療養所で患者同士が結婚する場合、男性が断種手術を受けさせられることがありました。結婚は許されても、子どもを持つことは許されない。そこには、夫婦として生きる喜びを認めながら、家族を築く未来だけを奪う矛盾がありました。

上野正子さんの夫も、結婚当日に子どもが作れなくなる手術を受けさせられました。上野さんにとって、それは夫婦の出発の日であると同時に、家族を持つ夢が閉ざされた日でもありました。

この問題を考えるとき、「なぜ当時そんなことが許されたのか」と感じる人は多いはずです。

背景には、次のような空気がありました。

病気や障害を社会から隠そうとする考え

国の政策に従うことが正しいとされた時代の空気

患者本人の人生より、社会全体の都合を優先する価値観

家族や子どもへの差別を恐れて声を上げにくい状況

怖いのは、こうした考え方が「悪意のある一部の人」だけで作られたものではないことです。制度、世論、近所の目、学校、職場、家族の不安。そうしたものが重なって、被害者を黙らせてきました。

旧優生保護法が違憲と判断されたことは、大きな節目です。しかし、それで苦しみがすべて終わるわけではありません。被害を受けた人の多くは高齢になっています。差別を恐れて補償を申請できない人もいます。名前を出せない、家族に言えない、過去を話すだけで傷が開く。そうした現実も残っています。

だからこそ、この問題は「昔の法律が悪かった」で終わらせてはいけません。

今も私たちは、誰かを「役に立つ」「迷惑をかける」「普通ではない」といった言葉で見ていないか。そこまで考えることが、同じ過ちをくり返さないために必要です。

上野正子さん夫婦の60年から見える「奪われた家族」の重み

上野正子さん夫婦の歩みは、ハンセン病問題の中でも、夫婦の時間家族を持つ夢について深く考えさせます。

上野さんは若くして療養所に入り、同じ患者だった夫と結婚しました。2人は長い年月を支え合いながら暮らしました。しかし、その結婚の始まりには、大きな傷がありました。夫は結婚当日に断種手術を受けさせられたのです。

結婚とは、本来なら新しい生活の始まりです。

一緒に暮らし、食事をし、季節を過ごし、いつか子どもを持つかもしれない。もちろん子どもを持つかどうかは夫婦それぞれの選択ですが、大切なのは「選べること」です。上野さん夫婦の場合、その選択が最初から奪われていました。

上野さんは、両親に愛された記憶を大切にしていました。療養所に入る前、父に買ってもらったコートの思い出。晩年の両親の声が残るテープ。そうした記憶は、上野さんにとって「自分は愛されていた」と確認できる宝物だったはずです。

だからこそ、自分も同じように家庭を築きたいと願ったことは自然です。

しかし、制度はその願いを認めませんでした。

それでも上野さん夫婦は、60年という長い時間を共に過ごしました。年の瀬には切り干し大根を作り、桜を見に行き、日々の暮らしを積み重ねました。そこには、奪われたものだけでなく、2人で守り抜いた時間もあります。

この夫婦の姿から見えてくるのは、被害者を「かわいそうな人」とだけ見てはいけないということです。

確かに、上野さん夫婦は大きな被害を受けました。けれど同時に、互いを支え、思い出を作り、日々を生き抜いた人たちでもあります。そこには、悲しみだけでは語りきれない強さがあります。

ただし、その強さを美談にして終わらせてもいけません。

「つらい中でも支え合ってすごい」で終わると、制度が何を奪ったのかが見えにくくなります。上野さん夫婦の60年は、愛情の物語であると同時に、本来なら選べたはずの未来を奪われた歴史でもあります。

家族とは、血のつながりだけではありません。

一緒に暮らすこと。

思い出を重ねること。

相手の人生を大事に思うこと。

その意味では、上野さん夫婦は確かに家族でした。だからこそ、子どもを持つ可能性を制度によって断たれたことの重みが、より深く伝わってきます。

ドリアン助川さんが語る『あん』と差別の構造

ドリアン助川さんの小説『あん』は、ハンセン病回復者を題材にした作品として知られています。この作品が多くの人の心に残るのは、ハンセン病を「過去の病気」として描くだけでなく、人が人をどう見るのかを問いかけているからです。

差別は、ただ「悪口を言うこと」だけではありません。

近づかないこと。

知らないまま怖がること。

相手の人生を勝手に決めつけること。

「社会の役に立つかどうか」で人の価値を測ること。

これらも差別につながります。

ドリアン助川さんが語った「差別の構造を見るべき」という視点は、とても重要です。なぜなら、差別は一人の意地悪な人だけで起きるものではないからです。

たとえば、誰かが「この人たちは危ない」と言う。

周りの人が、それを確かめずに信じる。

学校や職場や地域が、その人たちを遠ざける。

本人や家族が、迷惑をかけないように黙る。

すると、差別はどんどん見えにくくなります。

ハンセン病問題では、患者本人だけでなく家族も差別されました。家族が結婚を断られたり、就職で不利になったり、地域で孤立したりすることもありました。病気になった本人が苦しむだけでなく、その家族まで「知られたら困る」と思わされてしまう。これが差別の怖さです。

現在、国立ハンセン病療養所の入所者は年々少なくなり、高齢化も進んでいます。2025年5月時点で、全国13か所の国立療養所の入所者は639人、平均年齢は88.8歳とされています。証言を直接聞ける時間は、少なくなっています。

だからこそ、今このテーマに向き合う意味があります。

ハンセン病の歴史を知ることは、単に「昔はひどかった」と思うためではありません。今の社会で、同じような見方をしていないかを考えるためです。

病気の人を遠ざけていないか。

障害のある人を「かわいそう」とだけ見ていないか。

高齢者を「役に立たない」と見ていないか。

子どもを持つかどうかを、周りが勝手に決めつけていないか。

誰かの人生を、社会の都合で小さく扱っていないか。

ハンセン病と強制隔離の歴史は、遠い過去の話ではありません。人を「普通」「普通ではない」に分け、都合の悪い人を見えない場所に追いやる考え方は、形を変えて今も現れることがあります。

だから、読者ができる行動は大きなことだけではありません。

まず、ハンセン病は感染力が弱く、治療できる病気だと知ること。

患者や回復者、その家族を傷つける言葉を使わないこと。

療養所や資料館、証言記録に触れて、知らなかった歴史を学ぶこと。

家族や子どもと、人権や差別について話してみること。

「かわいそう」で終わらせず、「なぜこんなことが起きたのか」を考えること。

このテーマの中心にあるのは、病気ではなく人の尊厳です。

日高トシ子さんが「ももこ」と名付けた子への思い。上野正子さん夫婦が60年かけて支え合った時間。療養所で暮らしながら、それでも家族を思い続けた人たちの姿。

そこから見えてくるのは、人はどんな状況に置かれても、誰かを愛し、思い出を守り、自分の人生を生きようとするということです。

そして社会には、その人生を奪わない責任があります。


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