カーリング 極寒の町に熱狂を〜じっちゃんが夢をくれた〜|2025年3月8日放送
北海道・常呂町。冬になれば流氷に閉ざされる小さな町で、世界に誇るカーリングチームが誕生するまでの物語が、『新プロジェクトX』で紹介されました。何もないと思われていた町で、ひとりの男の情熱が人々を巻き込み、やがて少女たちに夢を与えました。夢は次世代へと受け継がれ、日本中を熱狂させるまでに成長しました。そこには、長い年月をかけて築かれた歴史と、多くの挑戦者たちの姿がありました。
破天荒な「じっちゃん」が作ったカーリングの文化
1970年代、常呂町で酒屋を営んでいた小栗祐治は、何事にも熱中する性格でした。野鳥撮影を始めれば山から帰らず、ボウリングにハマればレーンの油の塗り方まで研究するほどのこだわりようでした。しかし、そんな小栗にとって大きな転機が訪れます。
ある日、ラジオから流れてきた「カーリング講習会」の情報。北海道・池田町で開催されると知ると、160kmの距離をものともせず駆けつけました。そこで目にしたのは、氷上でストーンが滑る美しい軌跡と、チェスのような戦略が絡み合うカーリングの試合。その瞬間、小栗は「これだ!」と直感し、夢中になりました。
すると、すぐに行動に移します。町の駐車場に深夜こっそり水を撒き、リンクを作り始めたのです。しかし、個人で作るには限界がありました。そこで巻き込まれたのが兼田良二とその妻・悦子。最初は戸惑いながらも、次第にカーリングの魅力に惹かれていきました。
ただし、問題は道具でした。ストーンがなかったのです。そこで、常呂町の人々の知恵と工夫が生きてきます。
- 鉄工所の知人に頼み、取っ手付きの石を作ってもらう。初めてのカーリングストーンが誕生しました。
- それでも数が足りないため、ガスボンベをストーン代わりに使う。氷上に並ぶガスボンベは、今では考えられない光景でした。
- さらに、墓石までもストーンの代用品に。重さが似ているからという理由で、町の人々が持ち寄りました。
ストーンの代用品を用意できたものの、競技ルールはまだ不完全でした。そこでカナダのカーリング映像を参考にしながら、見よう見まねで試合を始めることにしました。
最初は遊びのようなものでしたが、実際にやってみると「意外と難しい!」「でも面白い!」という声が広がりました。
- ストーンの転がる軌道を読んで投げる戦略の奥深さに驚く人が続出
- 氷上でブラシを使って滑らせる技術を試す楽しさが評判に
- 普段は運動をしない人でも参加できるため、町の人々が次々と興味を持ち始める
こうして、最初は小栗の単なる思いつきだったカーリングが、町の人々を巻き込む一大プロジェクトへと成長していきました。
町を挙げての大会開催、そして世界へ
カーリングが町に根付くにつれ、小栗は「大会を開こう!」と言い出しました。最初は周囲も半信半疑でした。「本当にできるのか?」「そもそもカーリングの大会なんて日本で開けるのか?」という疑問の声もありました。しかし、小栗の熱意に押される形で、1981年に「第1回 NHK杯カーリング選手権大会」がついに開催されました。
- 全国から15チームが参加し、これまでほとんど知られていなかったカーリング競技に人々が熱狂
- テレビ中継も行われ、カーリングが日本中に紹介されるきっかけとなった
- これまで「遊び」だったカーリングが、公式な競技として認識されるようになった
この大会の成功は、常呂町にとって大きな一歩でした。そして、この盛り上がりは日本国内だけにとどまりませんでした。カナダのカーリング専門誌が常呂町を特集し、「日本にこんなカーリングの町がある!」と大きく紹介したのです。
この特集記事がきっかけで、常呂町からカナダへの視察団が派遣されることになりました。視察を任されたのは、町の住職松平斉之でした。彼がカナダで見たのは、日本とはまったく異なるカーリング文化でした。
- 大人も子どもも楽しそうにカーリングをしている光景に驚く
- 競技としてだけでなく、地域のコミュニティ活動の一環として定着していた
- カーリング場が地域の交流の場となり、世代を超えてスポーツが根付いていた
松平は「これこそ、常呂町が目指す未来だ」と確信しました。
しかし、その一方で町の未来には暗い影が差し始めていました。1980年代から1990年代にかけて、常呂町は人口減少の波に飲み込まれつつあったのです。
- 鉄道が廃線となり、町へのアクセスが不便に
- 小学校が統廃合され、子どもの数が減少
- 若者が町を離れ、産業の衰退が進む
そんな中で、カーリングだけは町の希望として残り続けました。たとえ人口が減っても、競技を続ける人々がいる限り、町には活気がありました。子どもたちはカーリングを通じて夢を持ち、大人たちはそれを支えようとしました。
この頃から、常呂町は「カーリングの町」としてのアイデンティティを確立し始めたのです。町の未来は決して明るいものではありませんでしたが、それでも人々はカーリングに夢を託し、新たな可能性を信じ続けていました。
オリンピックへの挑戦と新たな課題
1992年、カーリングがオリンピックの正式種目に決定しました。これにより、カーリングは日本でも注目されるようになり、1998年の長野オリンピックでは、日本代表チームが自国開催枠で出場することが決まりました。しかし、当時の日本のカーリングレベルは、世界のトップとは大きな差がありました。
- 本格的な練習環境が整っていないため、試合経験が圧倒的に不足
- カナダやスウェーデンのような強豪国には、幼少期から競技に触れられるシステムがあったが、日本では競技人口が少なく、指導者も限られていた
- カーリングがまだマイナースポーツであり、選手の多くが仕事と両立しながら競技を続けていた
そんな中、小栗は「メダルを目指す!」と宣言しました。しかし、周囲の人々は「夢物語だ」と思い、現実的ではないと考えていました。それでも小栗の情熱は衰えることなく、次世代の選手育成に力を注ぐことにしました。
そんな時、彼の目に止まったのが、小学6年生の本橋麻里という少女でした。
- 小学生ながら、大人顔負けの集中力と運動能力を持っていた
- 友達と「マリリンズ」というチームを結成し、町内リーグに参戦するほどの情熱を持っていた
- 試合になると、相手が大人でも一歩も引かず、果敢に勝負に挑んでいた
本橋の姿を見た小栗は、「彼女こそ常呂町の未来だ」と確信し、指導に力を入れるようになりました。すると、本橋の成長に影響を受けるように、吉田知那美や鈴木夕湖といった後の日本代表選手たちも、次々とカーリングに夢中になっていきました。
しかし、ここで大きな壁にぶつかります。
- 常呂町には、カーリングを本気で続けられる環境がなかった
- 高校を卒業すると、競技を続けるための進路が限られていた
- カナダなどの強豪国のように、プロとしてカーリングを続ける制度がなかった
本橋もまた、この現実に直面しました。「常呂町でカーリングを続けたい」と思っていましたが、競技を続けるには青森のチームへ移籍するしかなかったのです。
これは町にとっても大きな課題でした。せっかく才能ある選手が育っても、競技を続けるためには町を離れなければならない。この状況に、小栗や町の人々はもどかしさを感じていました。
- 「常呂町でカーリングを続けられる環境を作れないか?」と模索する動きが始まる
- それでもすぐに解決できる問題ではなく、選手たちはやむを得ず町を離れていった
- 町の人々は応援しながらも、「また戻ってきてほしい」と願っていた
この時、常呂町のカーリングが抱える大きな課題が明確になりました。それは、「才能を持った選手が町を離れずに競技を続けられる環境をどう作るか」という問題でした。小栗の挑戦はまだ終わりませんでした。
「ロコ・ソラーレ」の誕生と快挙
2006年、常呂町は北見市と合併しました。これにより、町の独自の文化や伝統が薄れていくのではないかという不安が広がりました。カーリングも例外ではなく、「この町では夢が叶わない」と言われるようになりました。町にはカーリングを続けるための環境がなく、競技を続けたい若者たちは町を離れざるを得ない状況に追い込まれていました。
しかし、その流れに逆らうように、本橋麻里は「故郷でカーリングを続けられる環境を作りたい」と強く決意しました。誰にも相談せず、自らの意志で常呂町へ戻ることを選びました。
- カーリングを続けるには町を離れるしかないという現実に疑問を抱いていた
- 自分と同じように町を離れるしかなかった後輩たちに、新しい選択肢を作りたいと考えた
- 自分の力で環境を整え、常呂町をカーリングの拠点にしたいと強く思っていた
本橋は、かつての仲間である鈴木夕湖と吉田夕梨花に声をかけました。2人もカーリングを続けたいという思いを持っていましたが、進学や就職の壁に直面し、競技を続ける道が見えなくなっていました。
そんな中、1人の医師が彼女たちの状況を知り、大きな転機が訪れます。
- 病院の医師・國分純が「スポンサーになる」と名乗り出た
- 「彼女たちの挑戦を応援したい」と、地域の仲間にも支援を呼びかけた
- 病院や企業が分担して選手を雇用し、働きながら競技を続けられる体制を作った
こうして、「競技と生活を両立できる仕組み」が誕生しました。この体制ができたことで、町を離れなくてもカーリングを続けられる環境が整い、新たなチーム「ロコ・ソラーレ」が誕生しました。
しかし、道のりは決して平坦ではありませんでした。
- 資金が十分にあるわけではなく、スポンサー探しに奔走する日々が続いた
- 競技レベルを上げるために、国内外の強豪チームとの練習試合を重ねた
- 全国大会で結果を出し、オリンピックを目指せるチームへと成長するための努力を続けた
そんな中、2017年、チームにとって大きな試練が訪れます。小栗祐治が危篤状態になったのです。
選手たちは病院に駆けつけましたが、彼が旅立つわずか20分前でした。
- 「オリンピックでメダルを取る」と誓いを立てた
- 小栗が築いたカーリング文化を絶やさないと心に決めた
- 自分たちの戦いが、小栗の思いを引き継ぐものになると確信した
そして迎えた2018年、平昌オリンピック。
- ロコ・ソラーレは、強豪チームを次々と撃破し、ついに銅メダルを獲得
- 日本のカーリング史上初のオリンピックメダルという快挙を達成
- 「そだねー」という北海道なまりの掛け声が話題となり、カーリングが日本中で注目されるようになった
40年前、小栗が始めたカーリングは、ついに世界へと羽ばたきました。そして、この町で夢を叶えるために戦った選手たちが、新たな世代に夢を託す時が訪れました。
夢は次の世代へ
2013年、新しいカーリング場の始投式で、小栗は車いすのままストーンを投じました。彼が作った文化は今も常呂町で受け継がれ、子どもたちが夢を追い続けています。町の未来には、カーリングの明るい光が輝いています。
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