『天は赤い河のほとり』は1度のトルコ旅行から始まった
『ネコメンタリー 猫も、杓子(しゃくし)も。(篠原千絵と桃太)(2026年8月28日)』からもう1つ掘り下げたいのが、篠原千絵さんとトルコ・ヒッタイト帝国の深い関係です。代表作『天は赤い河のほとり』は、最初からヒットを狙って選ばれた題材ではありません。きっかけは旅行先で偶然訪れた古代都市の遺跡。その構想はすぐには連載にならず、約8年もの時間を経て作品になりました。
この記事でわかること
- 『天は赤い河のほとり』誕生のきっかけとなった場所
- ヒッタイト漫画が約8年間実現しなかった理由
- 篠原千絵さんがトルコを20回近く訪れた背景
- 考古学者との交流が現在まで続いていること
始まりはトルコのハットゥシャ遺跡だった
(出典:山川出版社「ヒッタイトに魅せられて」紹介)
『天は赤い河のほとり』が生まれた最大のきっかけは、篠原千絵さんがトルコ中部のハットゥシャ遺跡を訪れたことでした。
篠原さんが最初からヒッタイト帝国を目的にトルコへ向かったわけではありません。もともと興味を持っていたのはシルクロードで、その最終地点に近く、旅行先として行きやすかったことからトルコを選びました。
ところが、そこで訪れたのが古代ヒッタイト帝国の都・ハットゥシャでした。
篠原さんは、建物そのものではなく礎石が残る広大な大地の空気に強く引かれ、「いつかここを舞台に漫画を描きたい」と考えるようになります。さらに驚くのは、作品のラストにあたる遺跡の場面まで、その場所で浮かんだことです。
物語を最初から細かく組み上げたというより、「最後にこの景色へたどり着きたい」という終着点が先に存在した作品だったのです。
ハットゥシャは実際にヒッタイト帝国の首都だった遺跡で、神殿、王宮、城壁、ライオン門などが残り、1986年には世界遺産に登録されています。
漫画に登場する壮大な世界の出発点が、実在する遺跡で作者自身が受けた衝撃だったと知ると、作品の見え方もかなり変わります。
描きたかったのに約8年間連載できなかった
『天は赤い河のほとり』は、思いついてすぐ始まった作品ではありません。
篠原さんが編集者に「ヒッタイトを舞台に描きたい」と伝えてから、実際に連載へ進むまでには約8年間かかっています。
理由は明快で、当時は「少女漫画でヒッタイトを扱っても読者に受けない」と考えられていたためです。
今では歴史漫画の代表作として知られていますが、企画段階ではむしろ通りにくい題材でした。
しかも、最初に篠原さんが考えていた主人公は現代の少女ではなく、古代ヒッタイトに生きる少女でした。
転機になったのが編集者からの「タイムスリップものなら」という提案です。
そこで、現代日本から古代へ飛ばされた普通の少女・ユーリが主人公になりました。
結果的にこの変更によって、歴史に詳しくない読者もユーリと同じ目線で未知の世界へ入っていける作品になっています。篠原さん自身も後に、この提案によって物語を動かしやすくなったと振り返っています。
一見すると遠回りだった8年間ですが、その間に資料や描きたいエピソードも蓄積されました。
描けなかった期間そのものが、大長編を支える準備期間になったわけです。
トルコには20回近く足を運んでいる
ハットゥシャとの出会いは、1度きりの旅の思い出では終わりませんでした。
篠原さんはその後もトルコを訪れ、2018年のインタビューでは、これまで20回近く訪れていると語っています。
漫画家が作品の舞台へ何度も足を運ぶこと自体は珍しくありませんが、20回近くとなると、単なる資料集めを超えた関係です。
篠原さんが別のインタビューで語っているのが、中央アナトリアを長距離バスで移動したときの体験でした。
見渡す限り丘陵と小麦畑が続く風景を目にしたとき、初めて来た異国なのに「ここを知っている」というような不思議な感覚を覚え、それが長編を描く原動力になったとしています。
作品の背景に描かれる土地は、資料写真だけを参考に組み立てたものではありません。
作者本人が実際に歩き、空気や距離感まで体験した土地だったのです。
資料が少ないからこそ創作で世界を補った
古代ヒッタイトを描くうえで難しかったのが、視覚資料の少なさでした。
文字で伝わる歴史資料はあっても、当時の人物がどのような服を着て、どのような空間で暮らしていたのかを漫画として描けるほど資料が残っているわけではありません。
篠原さんは、古代エジプトの壁画に残る装束に加え、現代の中東やアフリカの民族衣装なども参考にしながらビジュアルを組み立てました。
ここが『天は赤い河のほとり』の面白いところです。
実在したヒッタイト帝国や歴史上の出来事を土台にしつつ、資料で埋められない部分には漫画家としての想像力が入っています。
単純な歴史再現ではなく、歴史とフィクションを組み合わせて1つの世界を作っているため、歴史を知らなくても物語として楽しめるのです。
考古学者・大村幸弘との出会いがヒッタイトとの縁をさらに深めた
篠原さんとヒッタイトを結ぶもう1人の重要人物が、考古学者の大村幸弘さんです。
大村さんは長年トルコで発掘を続けてきた考古学者で、アナトリア考古学研究所所長としてカマン・カレホユック遺跡などの調査に携わってきました。
篠原さんが大村さんと初めて会ったのは、『天は赤い河のほとり』を連載していたころです。
その後、篠原さん自身も大村さんが発掘していたカマン・カレホユック遺跡を訪れ、大村さんが日本で講演するときには可能な限り足を運んで勉強を続けてきました。
漫画が完結すれば取材も終了、ではなかったことが分かります。
作品を描き終えたあとも、ヒッタイトへの興味そのものが続いていたのです。
考古学者と一緒に『ヒッタイトに魅せられて』まで出版した
(出典:山川出版社「ヒッタイトに魅せられて」紹介)
その関係は最終的に1冊の本にもなりました。
2022年11月、大村幸弘さんと篠原千絵さんの共著として『ヒッタイトに魅せられて 考古学者に漫画家が質問!!』が刊行されています。
篠原さんが読者を代表するような立場で大村さんに質問し、ヒッタイト帝国、ミタンニ王国、鉄の起源、アナトリアでの発掘などへ踏み込んでいく内容です。
漫画のために歴史を調べた人が、作品終了後には考古学者と一緒に専門書を作るところまで進んだことになります。
『天は赤い河のほとり』を読んでヒッタイトそのものに興味を持った人なら、原作の背景をさらに深く知る入口になる1冊です。
『夢の雫、黄金の鳥籠』でも再びトルコへ戻った
篠原さんとトルコとの関係は、ヒッタイトだけでは終わりません。
2010年に始まった『夢の雫、黄金の鳥籠』では、時代を大きく進め、16世紀のオスマン帝国を舞台にしました。
主人公は、のちにスレイマン1世の寵妃となるヒュッレム。史実では権力を握った女性として語られることの多い人物を中心に、後宮と宮廷政治を描い
連載は2024年まで14年間続き、全20巻で完結。篠原さんにとって最長の連載作品とな
古代ヒッタイトを描いた作家が、今度は同じ土地で約3000年後に栄えたオスマン帝国を描いたことになります。
時代も登場人物も違いますが、異国の歴史の中で大きな運命に巻き込まれ、それでも自分の意志で生きようとする女性を描く点は共通しています。
45年間描き続けた原点には「実際にその場所へ行く」があった
篠原千絵さんの代表作を並べると、サスペンス、超常現象、歴史ロマンと作品の世界は大きく変化しています。
その中でも『天は赤い河のほとり』は特別です。
旅行中に偶然立った遺跡でラストシーンが浮かび、描きたいと伝えても約8年間実現せず、それでも諦めず、連載開始後は28巻の大作になりました。
さらに完結後もトルコとの縁は切れず、考古学者との交流や書籍出版へとつながっています。
2026年には画業45周年を迎え、『天は赤い河のほとり』もテレビアニメとして新たに動き出しました。
作品だけを追うと巨大なヒット作に見えますが、そのスタート地点にあったのは、漫画家が旅先の遺跡を見て「ここを描きたい」と感じた瞬間でした。
そこから約8年待っても消えなかった思いこそ、篠原千絵さんが長い時間をかけて歴史大作を生み出せた原動力だったと分かります
宝塚歌劇「天は赤い河のほとり 原作者インタビュー」UNESCO「Hattusha: the Hittite Capital」山川出版社『ヒッタイトに魅せられて』
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