15人はどうやって成田空港の管制塔まで侵入したのか
『金曜ミステリークラブ(逃亡犯・福田和子最大の謎SP!!時効成立目前で逮捕…なぜ!?)(2026年8月28日)』では、福田和子事件と並んで1978年の成田空港管制塔占拠事件が取り上げられます。開港までわずか4日、1万人を超える警察官が警備する空港で、なぜ15人の活動家が管制塔まで到達できたのか。鍵になった地下排水溝、管制室までの侵入経路、開港延期、その後の成田空港までをたどります。
この記事でわかること
- 15人が厳重警備の空港内へ侵入できた方法
- 地下排水溝から管制塔16階へ到達するまでの経緯
- 管制機器の破壊で開港が3月30日から5月20日へ延期された理由
- 事件の舞台となった旧管制塔と成田空港問題のその後
15人は地下排水溝に一晩潜み管制塔の近くから地上へ出た
(出典:毎日新聞「成田空港管制塔占拠/上 43年後の証言」)
厳重に警備された成田空港へ侵入できた大きな理由は、正面のゲートを突破したのではなく、空港地下へ続く排水溝を利用したことでした。
事件前日の1978年3月25日夜、管制塔への突入を計画したグループは、空港敷地内につながる排水溝へ入りました。
裁判資料によると、当初は約20人が現場へ向かいましたが、一部が警察に発見され、最終的に15人が排水溝内へ潜入しています。排水溝には火炎瓶、鉄パイプ、バール、ハンマー、ガスカッター、無線機なども持ち込まれていました。
15人はすぐに地上へ出ませんでした。
地下で夜を過ごし、翌3月26日、地上で大規模な集会や空港への突入が始まるタイミングに合わせて行動します。
警察庁の記録にも、別働隊約15人が地下の排水溝を伝って空港構内へ潜入したことが残されています。
1万人を超える警備態勢の盲点になったのが、地上から見えない地下ルートだったのです。
管制塔だけを狙ったのではなく警備を分散させる行動が同時に起きていた
当日の成田では、管制塔へ向かった15人だけが行動していたわけではありません。
大規模な集会やデモに加え、別のグループによるゲートへの突入などが同時に発生していました。
1978年3月29日の国会報告では、3月26日に約8000人が集会・デモに参加し、警察は県外からの応援約1万人を含む約1万3000人の警察官を動員していたとされています。
これほどの人数を配置していても、守る場所は空港のゲート、周辺道路、集会、各施設など広範囲に及びます。
その最中、地下に潜んでいた15人が地上へ現れました。
警備側からすれば、目の前で起きている大規模な動きに対応しながら、予想していなかった場所から現れた少人数の部隊にも対処しなければならない状況でした。
人数だけを見ると圧倒的な差ですが、警備を広い範囲へ分散させたうえで、地下から管制塔付近へ出るという組み合わせが、侵入を許す結果につながりました。
地上へ出た15人のうち6人が16階の管制室まで到達した
地下から地上へ出た15人は、空港管理棟へ向かいました。
裁判記録では、5人が管理棟1階付近に残り、残るメンバーが上階へ進んだことが認定されています。途中ではエレベーターなどを使い、14階へ到達しました。
しかし、目標だった管制室はさらに上の16階です。
管制塔の外側にはパラボラアンテナが設置されていました。活動家たちは14階付近から外へ出て、その周辺をよじ登りながら管制室を目指しました。
最終的に管制塔内部へ進んだのは10人、そのうち6人が16階の管制室へ到達したとされています。
地上約60mという高さでした。
現在の空港のような厳重なセキュリティーを想像すると、地下から建物へ入り、さらに管制塔の外側を登って管制室へ到達したという経路は、事件の異常さをよく表しています。
管制官は屋上へ避難し管制機器が破壊された
(出典:毎日新聞「成田管制塔占拠事件、主導役の元受刑者死去」写真特集)
16階にいた管制官たちは関係部署へ連絡した後、天井部分から屋上へ避難しました。
活動家たちは管制室の窓を破って内部へ入り、管制機器をハンマーや鉄パイプなどで破壊します。
14階にあった通信関係の設備も被害を受けました。成田国際空港の記録にも、16階の管制室と14階のマイクロ通信室へ侵入し、管制機器などが破壊されたことが記されています。
屋上へ逃れた管制官たちはヘリコプターで救出されました。
空港の管制室は、航空機の離着陸を安全に動かすための中枢です。
建物そのものが残っていても、管制に必要な機器が使用できなければ空港は通常通り開港できません。
この破壊行為が、4日後に迫っていた開港を止めることになりました。
3月30日の開港予定日は5月20日まで延期された
成田空港は本来、1978年3月30日に開港する予定でした。
事件が起きたのは、そのわずか4日前の3月26日です。
3月28日には、飛行場管制室などの機器が破壊されたことを受けて開港延期が決定されました。そして4月4日、新たな開港日を5月20日とすることが決まります。
結果として、予定より51日遅れて新東京国際空港が開港しました。
開港時は4000mのA滑走路1本からスタートしています。
管制塔を占拠するという行動は違法なものであり、多数の負傷者も出しました。一方で、なぜ空港建設をめぐる対立がここまで激しくなったのかという背景を切り離してしまうと、事件全体は見えてきません。
成田空港建設をめぐる対立は1966年から続いていた
成田空港の建設地が成田市三里塚を中心とする地域に正式決定されたのは1966年7月です。
当時、羽田空港の処理能力が限界に近づくと予測され、新しい国際空港の建設が進められていました。
しかし、建設予定地の決定をめぐって地元住民との激しい対立が生まれます。
1966年には三里塚・芝山連合空港反対同盟が結成され、その後、用地取得や土地収用をめぐって国側と反対派の衝突が続きました。
1971年には行政代執行も行われています。
さらに学生運動や新左翼系の組織が反対運動へ加わったことで、農地や生活の問題から始まった対立は大規模な社会運動へと変化していきました。
管制塔占拠事件は突然起きた出来事ではなく、10年以上続いていた成田空港問題が最も激しい形で表れた事件の1つでした。
事件後には「成田新法」が制定され警備も強化された
管制塔占拠事件を受け、空港周辺の警備体制も大きく変わりました。
1978年5月には「新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法」が施行されます。いわゆる成田新法です。
開港後も成田空港をめぐる対立は終わりませんでした。
一方、1990年代に入ると大きな転換が訪れます。
1991年には国、空港側、千葉県、反対派が参加する「成田空港問題シンポジウム」が始まり、長期間続いた対立を話し合いによって解決する動きが進みました。
1993年のシンポジウムでは、空港用地に関する収用裁決申請を取り下げることなどが示され、その後の円卓会議へつながっています。
力による衝突が続いた歴史から、話し合いによる「共生」へ方向を変えていったことも、成田空港の歴史を知るうえで欠かせない部分です。
占拠された旧管制塔は40年以上使われ2021年に解体された
意外なのは、事件で破壊された管制塔が、そのまま取り壊されたわけではないことです。
修復された旧管制塔は開港後も使用されました。
1993年には高さ87.3mの新しい管制塔が完成し、航空管制業務はそちらへ移ります。
旧管制塔ではその後も空港会社による航空機の地上走行関連業務などが続けられ、2020年9月に役目を終えました。
そして2021年3月17日から解体が始まりました。
1978年の事件現場そのものは姿を消しましたが、成田空港と地域が歩んできた歴史は現在も保存されています。
「空と大地の歴史館」で成田空港問題の背景をたどれる
成田空港近くの千葉県芝山町には、成田空港 空と大地の歴史館があります。
2011年に開館した施設で、空港が建設される前の地域、反対運動、開港、長期間の対立、シンポジウムや円卓会議を経た共生への歩みまでを展示しています。
特に「流血の日々」「成田開港」「長く重い時間」という展示では、建設する側と反対する側の双方が経験した出来事を時系列で知ることができます。
場所は千葉県山武郡芝山町岩山113-2。航空科学博物館の近くです。
- 開館時間:10:00~17:00
- 入館:16:30まで
- 入館料:無料
- 休館日:月曜日を基本とし、祝日・振替休日の場合は翌日、年末年始
歴史を単純に「空港建設」と「反対運動」の2つに分けるのではなく、その地域で暮らしてきた人々を含めて知りたい人には興味深い施設です。
気になる生活ナビをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。


コメント