石川生まれの仏師が能登へ戻ったもう1つの物語
『ナゼそこ?(世界的名鑑に載る超一流の人物がナゼ山奥に?300年ぶり大偉業SP)(2026年9月3日)』で取り上げられる吉田安成さんには、仁王像の大修理とは別に知っておきたい仕事があります。2024年の能登半島地震で壊れた仏像を救うため、国の文化財レスキュー事業に参加しました。石川県生まれの仏師が高知から故郷へ戻り、被災寺院で何をしたのか。その仕事には、仏像を直す以上の意味がありました。
この記事でわかること
- 吉田安成さんが能登へ向かった理由
- 文化財レスキューで行った仏像の応急処置
- 穴水町・明泉寺で行われた作業
- 「仏様が戻る」ことが地域に持つ意味
吉田安成さんは能登半島地震で壊れた仏像を救いに石川へ向かった

(出典:毎日新聞)
2024年11月、仏師の吉田安成さんは、高知県から石川県奥能登へ向かいました。
目的は、能登半島地震で被災した仏像の応急処置です。
吉田さんが参加したのは、国が進める文化財レスキュー事業でした。よしだ造佛所の経歴にも、2024年の活動として「能登半島被災仏像応急処置事業」への参加が記録されています。
この出来事が吉田さんにとって特別なのは、石川県が単なる出張先ではなかったことです。
吉田さんは1974年に石川県で生まれ、岐阜県で育ちました。
高知の山里に工房を構え、全国の仏像を制作・修理する立場となった後、今度は培った技術を携えて自分の生まれ故郷の被災地へ戻ることになりました。
文化財レスキューは「完全に元通りにする修復」とは違う
「文化財レスキュー」と聞くと、その場で仏像を完全修復する仕事を想像しやすいですが、役割は少し異なります。
能登半島地震を受け、文化庁の事業を国立文化財機構が受託し、文化財防災センターを中心に活動が始まりました。
対象になるのは仏像だけではありません。
被災した建物などに残された美術工芸品、古文書、民俗資料をはじめ、地域の歴史を伝えるさまざまなものを救出し、応急処置や一時保管などを行います。
仏像の場合も、まず重要なのは、
- どこが壊れたのか
- 外れた部材が残っているか
- これ以上損傷が進まないか
- 本格修理まで安全に保てる状態か
を確認することです。
吉田さんが長年培ってきた古仏修理の経験が、ここで直接生かされました。
穴水町の明泉寺では地震で壊れた仏像の部材を1つずつ戻した
吉田さんの活動が伝えられた場所の1つが、石川県穴水町の明泉寺です。
能登半島地震によって仏像の一部が壊れ、さまざまな部材が外れていました。
吉田さんは残された部材を確認しながら、正しい位置を見極め、接着したり、元の場所へはめ込んだりしていきました。
ここで重要なのが、むやみに新しい部品を作って見栄えを整えているわけではないことです。
古い仏像では、外れてしまった小さな部材1つにも制作当時や過去の修理を知る手掛かりがあります。
よしだ造佛所も能登での作業について、残された資料を手掛かりに脱落した部材を接着したことを記しています。
文化財修理の経験を積んできた吉田さんだからこそできる仕事です。
被災した寺で「仏様が戻る」ことには大きな意味があった
応急処置によって仏像の姿が整うことは、美術品が直るというだけの話ではありません。
寺院にとって仏像は、長い年月にわたって地域の人が手を合わせてきた存在です。
明泉寺の住職は、被災した仏像を修復する機会が得られたことへの感謝を語っています。吉田さん自身も、仏像を少しでも元の姿へ戻すことで、被災した人の気持ちが軽くなり、「仏様が戻ってきた」と喜んでもらえればと話しました。
建物が壊れ、道路も傷み、生活環境が大きく変わった地域に、以前と同じように仏像が立つ。
それは地域の人にとって、「以前から続いてきたものがすべて失われたわけではない」と感じられる出来事にもなります。
文化財を守ることが、地域の記憶を守ることにつながる理由がここにあります。
能登町や輪島市の寺院でも応急処置を行った
吉田さんの活動は明泉寺だけではありません。
2024年11月12日から石川県内に入り、その後は能登町や輪島市など奥能登の寺院でも被災仏像の応急処置を進めました。
よしだ造佛所は、全国から仏像修理に関わる複数の事業者が被災地へ入っていたことも伝えています。
つまり、1人の職人だけで能登の文化財を救ったわけではありません。
各地の専門家が自分たちの技術を持ち寄り、本格修理へつなげるための作業を続けていました。
能登半島地震では被災地域が広いため、こうした専門家同士の連携も重要になります。
空から見えたブルーシートと崩れた山肌に言葉を失った
吉田さん一家が記した能登での記録には、作業内容だけでなく、現地へ入った際の様子も残されています。
普段、石川県へ墓参りするときは車で向かっていましたが、このときは飛行機で現地へ入りました。
上空から見えたのは、屋根を覆うブルーシートや崩れた山肌。
移動する車からは崩れた家屋、ひび割れた道路、災害の痕跡が続いていました。
2024年1月1日の能登半島地震だけでなく、同年9月には奥能登豪雨も発生しています。
その状態を実際に目にしたうえで、寺へ入り、仏像と向き合うことになりました。
自分の生まれた県へ「仏師として戻る」という出来事は、通常の修理依頼とはまったく違うものだったことが伝わってきます。
被災した仏像から能登の信仰と歴史も見えてきた
壊れた仏像を調査していく過程では、新しい発見もありました。
よしだ造佛所は、現地で出会った仏像を通して、能登に残されてきた豊かな信仰と文化の歴史を感じたと記しています。
これは文化財レスキューのもう1つの重要な側面です。
普段は寺のお堂に静かに安置されている仏像も、災害で破損すると、内部構造や部材を詳しく確認する必要が生じます。
そこで制作技法や過去の修理痕などが見つかれば、地域の文化を知る新しい資料になることがあります。
ただ直して戻すのではなく、残された情報を記録しながら次の修理へつなげることも文化財を守る仕事なのです。
「忘れられるのが一番怖い」という言葉が残った
能登での活動を終えた後、吉田さん側の記録には、被災地で聞いた印象的な言葉が残されています。
それが、
「忘れられるのが一番怖い」
という声でした。
大きな災害は発生直後には全国から注目されますが、年月とともに報道は減っていきます。
一方で、壊れた寺院や仏像、地域に残された文化財の修復には何年もの時間が必要になることがあります。
2026年になっても能登では文化財レスキューが続いており、テレビ金沢も2026年1月に「先人の技を未来へ~文化財レスキュー」と題して活動を紹介しています。
災害から時間がたっても、文化を守る仕事は終わっていません。
仁王像大修理と能登文化財レスキューは同じ仕事につながっている
吉田さんの高知での代表的な仕事が、まきでら長谷寺の仁王像大修理です。
一方、能登では地震によって突然壊れた仏像へ応急処置を行いました。
一見すると違う仕事ですが、根底にある考え方は共通しています。
古い仏像を、自分たちの時代だけで終わらせず次の世代へ渡すことです。
長谷寺では江戸時代の修理を受け継ぎ、令和の修理を未来へつなぎました。
能登では災害によって途切れそうになった仏像と地域のつながりを守りました。
14歳で仏像と出会い、木彫修業、仏師修業、国宝修理の現場を経験してきた技術が、何十年後かに故郷・石川の被災地でも必要とされたことになります。
世界的な職人名鑑への掲載だけでは見えてこない、吉田安成さんが仏師として何を守ろうとしている人物なのかがよく分かるエピソードです。
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