ネパール産ミツマタが日本の紙幣を支えるまで
私たちが毎日のように手にする日本のお札。その丈夫な用紙を支える植物の1つがミツマタで、重要な産地となっているのがヒマラヤを抱くネパールです。『世界で開け!ひみつのドアーズ(ネパール・ミツマタ生産者にありがとう旅)(2026年9月2日)』をきっかけに、ネパールで栽培が広がった理由、日本企業とのつながり、農家の仕事、事業継続を左右した転機まで整理します。
この記事でわかること
- ネパール産ミツマタと日本の紙幣の関係
- 株式会社かんぽうが1990年からネパールで取り組んだ背景
- 松原正社長が引き継いだミツマタ事業の転機
- 栽培・加工がネパールの仕事や教育につながった仕組み
ネパール産ミツマタの供給を支えてきた日本企業は株式会社かんぽう
日本の紙幣に使われるミツマタとネパールを結ぶうえで重要な存在が、大阪市に本社を置く株式会社かんぽうです。
かんぽうは官報や政府刊行物の販売などを手がける会社で、ネパールでのミツマタ生産に関わり始めたのは1990年。長年にわたり現地へ栽培方法や加工技術を伝え、日本向けの高品質なミツマタを安定して生産できる仕組みづくりに取り組んできました。現在の代表取締役は松原正さんです。
ネパール産ミツマタは、日本の新しい紙幣づくりにも欠かせない原料として使われています。
つまり「日本のお札の材料がネパールで採れる」というだけではなく、日本側の原料不足をきっかけに、30年以上かけて栽培・加工・輸送の仕組みが作られてきたことが、この話の大きなポイントです。
国内のミツマタ不足が1990年のネパール進出につながった

(出典:JICA「新紙幣の原料『みつまた』を通じて支え合う日本とネパール」)
ネパールでミツマタを育てるようになった背景には、日本国内の生産量減少があります。
かんぽうは官報販売などを通じ、当時の大蔵省印刷局、現在の国立印刷局とつながりを持っていました。その中で、国内でミツマタを生産する人が減り、紙幣用原料の確保が難しくなっていることを知ります。
さらに「ミツマタはヒマラヤ周辺が原産地らしい」という情報から、先代社長がネパールでの栽培を決断しました。
すぐに産地が見つかったわけではありません。数年にわたって現地を調べた末、ネパール東部の山岳地帯にあるジリ地区で、山一面にミツマタが自生する地域を見つけました。
日本で不足した植物を単純に海外から買い付けたのではなく、現地で栽培・加工できる仕組みそのものを作っていったところに、この事業の特徴があります。
ミツマタは1879年から日本の紙幣用紙に使われてきた
そもそも、なぜミツマタがお札の材料になるのでしょうか。
ミツマタは枝先が3つに分かれる落葉低木で、名前もその姿に由来します。繊維が丈夫で、古くから和紙などの原料として利用されてきました。
国立印刷局によると、ミツマタが日本の紙幣用紙の原料として初めて採用されたのは1879年です。紙幣は人の手を渡り歩き、折られたり、機械を通ったり、ときには水にぬれたりするため、用紙には高い耐久性が必要です。
ここで1つ覚えておきたいのは、日本のお札がミツマタだけでできているわけではないことです。
現在の紙幣用紙にはミツマタのほか、**アバカ(マニラ麻)**なども使用されています。これらの天然繊維によって、お札独特の手触りや丈夫さを持つ特殊な用紙が作られています。
ネパール産ミツマタは、その重要な原料の1つという位置づけです。
刈り取りから乾燥まで多くの工程が手作業で進む

(出典:JICA「新紙幣の原料『みつまた』を通じて支え合う日本とネパール」)
ネパールの山間部では、ミツマタを収穫して終わりではありません。
山の斜面で刈り取ったミツマタを運び、蒸して柔らかくする→表皮をはがす→水で洗う→乾燥させるという工程を経て、紙の原料となる樹皮へ仕上げていきます。
この加工方法は、大型設備がなければできない仕事ではありません。
そのため山村では、男性だけでなく女性も家事や子育ての合間に加工へ参加できるようになり、現金収入を得る仕事につながりました。
さらにミツマタの生産や加工で得た収入が子どもの学費に使われるようになり、教育を受ける機会にも結びついています。ミツマタ収入によって教育を受け海外留学した女性や、収益を使って小学校を建てた例もあります。
日本では「紙幣の材料」ですが、ネパールの山村から見ると、地域に仕事を残す作物という別の意味を持っています。
松原正社長は長年赤字だったミツマタ事業を2013年に引き継いだ

(出典:株式会社かんぽう「100th Anniversary」)
現在、株式会社かんぽうを率いているのが松原正社長です。
会社の沿革では、松原さんは2013年に第6代代表取締役へ就任しています。
ところが、引き継いだネパールのミツマタ事業は順調な事業ではありませんでした。
社員をネパールへ派遣する旅費や現地での移動費などが大きな負担となり、長年赤字が続いていました。株主総会でも事業継続に否定的な意見が出る状況でした。
松原さんは2013年に事業を引き継ぐ際、3年で事業継続のめどが立たなければ撤退するという覚悟で株主へ説明しています。
それでも事業を簡単に終わらせなかった背景には、ミツマタによって仕事を得た農家や、学校へ通えるようになった子どもたちの存在がありました。
ここが、ネパール産ミツマタの歴史を単なる「紙幣原料の輸入」の話では終わらせない大きな転機です。
2015年のネパール地震で主要産地ジリも大きな被害を受けた
ミツマタ事業には、もう1つ大きな出来事がありました。
2015年4月のネパール大地震です。
ミツマタの生産量が多かったドルカ郡ジリ町も大きな被害を受けました。その後、ミツマタ栽培を地域の復興や所得向上につなげる取り組みが進められ、2016年には、かんぽうが提案した栽培・加工技術の普及に関する取り組みがJICAの支援事業に採択されました。
2016年5月から2017年3月にかけて栽培・加工技術の導入に向けた調査が行われ、その後も現地で持続的に生産できる仕組みづくりへと発展していきます。
災害によって産地が打撃を受けた一方で、その後の復興が生産技術を現地へより深く根付かせる契機にもなりました。
JICAとの連携で年間約30トンから100トン規模へ拡大した

(出典:JICA「新紙幣の原料『みつまた』を通じて支え合う日本とネパール」)
事業を大きく変えたのが、現地の人が現地の人へ教えられる仕組みです。
森林事務所の職員や森林保護官などに栽培・加工方法を教え、さらに生産者グループをまとめる方法まで伝えました。
日本側の担当者が毎回農村へ行かなければ生産できない状態では、長く続きません。そこで「教えられる人」をネパール側に増やし、技術指導を徐々に現地へ移していきました。
もう1つの壁だったのが行政手続きです。
ミツマタはネパール政府の許可を受けて国有地で栽培されており、許認可の手続きが事業拡大の負担になっていました。関係機関との調整が進んだことで生産地域を遠隔地にも広げられるようになり、年間約30トンだった生産量は100トン規模まで増加しています。
紙幣を安定して製造する日本にとって原料確保につながり、ネパール側にとっては農村で暮らし続けるための仕事になる。
どちらか一方だけが利益を得るのではなく、両国の事情がかみ合ったことで30年以上続く事業になったことが分かります。
株式会社かんぽうは創業100年を超える官報販売の会社
株式会社かんぽうは、ミツマタ専門の会社ではありません。
1921年創業で、大阪府大阪市西区江戸堀に本社があります。官報の提供、官報公告の取次ぎ、政府刊行物の販売などが中心事業で、現在は和紙原料であるミツマタやミツマタを使った製品も扱っています。関連会社としてKANPOU-NEPALがあります。
官報を扱う会社だったからこそ印刷局との接点があり、そこから日本国内のミツマタ不足を知り、ネパールへつながっていったわけです。
会社の歴史を見ると、2003年にはネパールのミツマタ事業で生産した手漉きミツマタ和紙を使ったおみくじを住吉大社へ納入しています。紙幣だけでなく、和紙製品へ利用を広げてきたことも分かります。
一見するとまったく違う「官報販売」と「ネパール農業」が、紙という共通点からつながっているのも、この会社の面白いところです。
日本のお札はネパールの山村から始まる長いリレーで作られている
手元にある千円札や五千円札、一万円札だけを見ていると、その原料がヒマラヤ近くの山村までつながっていることはなかなか想像できません。
ミツマタを育て、山から運び、蒸し、皮をはがし、洗い、乾燥させる人がいて、日本まで原料が運ばれます。
その後、国立印刷局でミツマタやアバカなどを使った特殊な用紙が作られ、すき入れや印刷など数多くの工程を経て日本銀行券になります。
ネパール産ミツマタの歴史をたどると、日本の原料不足から始まった取り組みが、農村の仕事、女性の収入、子どもの教育、震災からの復興、そして日本の紙幣の安定供給へとつながってきたことが見えてきます。
普段なら何気なく財布へしまうお札ですが、どこで材料が作られているかまで知ると、その1枚の見え方が少し変わってきます。
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