柴犬と同じ天然記念物だった「越の犬」はなぜ姿を消したのか
現在、天然記念物の日本犬といえば柴犬・秋田犬など6犬種ですが、かつてそこにはもう1つ、北陸で暮らした**「越の犬(こしのいぬ)」**がいました。『歴史探偵(犬と日本人 はるかなる旅)(2026年9月2日)』で描かれる日本犬の絶滅危機をさらにたどると、1934年に国の天然記念物となりながら純血系が途絶えた“幻の日本犬”へ行き着きます。柴犬が残り、越の犬が消えた歴史を見ていきます。
この記事でわかること
- 「越の犬」がどんな日本犬だったのか
- 天然記念物に指定された経緯
- 1971年ごろ純血系が途絶える直前の状況
- 富山県の「県獣」からも姿を消した歴史
現在6犬種の日本犬には「7番目の天然記念物」がいた
(出典:富山県民生涯学習カレッジ「越の犬」)
現在、国の天然記念物として知られる日本犬は、
- 柴犬
- 秋田犬
- 甲斐犬
- 紀州犬
- 四国犬
- 北海道犬
の6犬種です。
ところが、これとは別に国の天然記念物に指定された日本犬がいました。
それが越の犬です。
文化庁の国指定文化財等データベースにも「越の犬」の記録があり、天然記念物への指定日は1934年12月28日となっています。指定基準は「日本に特有な畜養動物」です。
現在の6犬種だけを見ると、日本犬の保存がすべて成功したようにも感じます。
実際には、その途中で血統が途絶えてしまった犬もいたのです。
越の犬は北陸の山で活躍した中型の猟犬だった
越の犬が暮らしていた中心地域は富山・石川・福井など北陸地方です。
もともとは地域によって「立山犬」「白山犬」などとも呼ばれ、山間部で猟犬として使われていました。富山県の資料では、粗食にも耐える強健な体を持ち、敏捷で警戒性が高く、飼い主には従順だった犬として紹介されています。
福井県が残す文化財資料からは、姿もかなり具体的に分かります。
体高は約50cm、体重は約15kg。
耳は小さく厚く前向きに立ち、赤毛の犬が多かったとされています。体つきはがっしりした中型犬でした。
柴犬よりひと回り大きく、現在の紀州犬や四国犬などに近い中型サイズを想像すると分かりやすいでしょう。
愛玩犬として生まれた犬ではありません。
北陸の険しい山で人とともに働いてきた実用的な地犬でした。
1934年にはすでに「残さなければならない犬」になっていた
越の犬が天然記念物に指定された1934年前後は、日本各地で昔ながらの日本犬を残そうとする動きが広がった時代です。
日本犬保存会は1928年に設立され、1934年には「日本犬標準」を制定しました。
現在の日本犬も、この保存活動を経て柴犬・中型犬・秋田犬などの形が整理されていきます。
越の犬も、その価値を認められた犬の1つでした。
文化庁の記録では、北陸地方で飼育される中型の日本犬で、四肢が強健で、粗い毛と豊かな綿毛を持つ犬として記録されています。
現在では柴犬の知名度が圧倒的ですが、昭和初期には越の犬も国が保存すべき日本固有の犬として扱われていたわけです。
天然記念物になっても戦後にはほとんど姿を消していた
天然記念物に指定されれば、その犬種が自動的に未来まで残るわけではありません。
越の犬がたどった歴史が、その難しさを物語っています。
福井県の文化財資料には、戦後になると県内で越の犬がほとんど姿を消したことが記されています。
柴犬にも同じような危機がありました。
日本犬保存会は、第2次世界大戦によって多くの日本犬が犠牲となり、終戦前から戦後3~4年間は主要な保存活動もほとんど行えなかったとしています。
柴犬の場合は石号から中号などへ血統がつながり、戦後の繁殖を立て直すことができました。
越の犬には、その後に犬種全体を再構築できるだけの純血系が残りませんでした。
ここが2つの犬の運命を分けました。
1971年の富山県資料には23歳の「丸号」が登場する
越の犬の終盤を伝える非常に興味深い記録が残っています。
富山県が1971年1月に発行した「みんなの県政」では、越の犬を大きく取り上げています。
そこに登場するのが**「丸号」**です。
当時、富山県内で「越の犬の純系」と断定できる犬として紹介されていたのが、城端町で飼育されていた丸号でした。
しかも年齢は23歳。
高齢のため生殖能力も失われていたと記されています。
1971年という時点で、すでに純血の越の犬を次世代へ残すことが極めて難しい状態だったことが分かります。
同じ資料には、完全な純血ではなくても越の犬に近い特徴を残している犬を探し、繁殖につなげようとした様子も記録されています。
犬種が絶える直前まで、残そうとした人たちがいたのです。
「丸号」だけではなく近い血統の犬同士まで交配が試みられた
1971年の資料でもう1つ興味深いのが、**「悉号」と「鈴香号」**という犬の記録です。
純血の越の犬がほとんど残っていなかったため、純系に近いと考えられる犬を探し出し、血統を残そうと交配が試みられていました。
しかし雄犬は高齢で、雌犬との体格差もあり、繁殖がうまくいくかどうかが懸念されていました。
犬種保存の難しさがよく分かる場面です。
単に、
「似ている犬同士を交配すれば復活する」
というものではありません。
純血系を維持するには、繁殖可能な雄と雌が一定数存在し、血統を確認しながら何世代にもわたって子孫を残さなければなりません。
残された犬が数頭になってからでは、取り戻すことが非常に難しくなります。
柴犬の石号とその子孫が何世代にもわたって血をつなげられたことが、どれほど大きかったのかも見えてきます。
越の犬は富山県の「県獣」にまで選ばれていた
越の犬は、単なる珍しい地犬ではありませんでした。
1963年には富山県の県獣に制定されています。
県を象徴する動物にまで選ばれた犬だったのです。
ところが、その約12年後の1975年、富山県は県獣をニホンカモシカへ変更しました。
富山県の資料には、その理由がはっきり残されています。
越の犬のほぼ絶滅が確認されたためです。
1975年9月の県政記録にも、絶滅した県獣「越の犬」に代わり、新しい県獣としてカモシカを決定したことが記されています。
天然記念物になった。
県獣にもなった。
それでも犬種そのものを残すことはできなかった。
この事実は、日本犬保存の難しさを非常に強く伝えています。
現在の柴犬が残ったことは決して当たり前ではない
今では柴犬を街で見かけることは珍しくありません。
日本犬保存会によると、柴犬は現在飼育されている日本犬の大部分を占める人気犬種です。
しかし歴史を約100年さかのぼれば、柴犬も越の犬も「残さなければ姿を消す可能性がある日本犬」という立場にありました。
柴犬では、
石号
↓
アカ号
↓
紅子号・アカ二号
↓
中号
と血統がつながり、戦後の復興へ結び付きました。
一方、越の犬では1971年ごろには純血の繁殖が極めて困難なところまで頭数が減っていました。
現在の日本犬が6犬種なのは、昔から6種類しか存在しなかったからではありません。
残すことのできた犬と、途中で血統が途絶えた犬がいた結果が現在の6犬種なのです。
「越の犬」は日本犬保存のもう1つの結末を伝えている
越の犬は、北陸の山で猟師とともに暮らし、1934年には国の天然記念物となりました。
1963年には富山県の県獣にも選ばれます。
それほど大切にされた犬でありながら、1971年には富山県で純系と断定できる犬が高齢の丸号だけという状況になり、その後、純血系は途絶えました。富山県の現在の資料でも、越の犬は「絶えたとみられている」とされています。
柴犬の絶滅危機を知った後だからこそ、この歴史には重みがあります。
柴犬が現在まで残ったことは偶然でも当然でもありません。
血統を調査し、犬を探し、繁殖させ、何世代もつないだ人々がいたからです。
越の犬という“失われた日本犬”を知ることで、石号から現在まで柴犬が残った意味も、さらに鮮明に見えてきます。
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