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大関和と鈴木雅は何をした人?『風、薫る』モデル2人と東京看護婦会の関係【歴史探偵で紹介】

歴史
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明治の女性たちが切り開いた看護の道

病院で看護師が患者を支える光景は、今では当たり前に見えます。しかし明治初期には、専門教育を受けた女性が看護を職業にすること自体が新しい挑戦でした。

『歴史探偵「風、薫る」コラボ 明治ナース誕生秘話(2026年7月22日放送)』では、大関和・鈴木雅・大山捨松らの歩みを通して、日本の近代看護が生まれるまでの背景が取り上げられます。

この記事でわかること

  • 一ノ瀬りんと大家直美の実在モデル
  • 大関和と鈴木雅が成し遂げた仕事
  • 大山捨松が看護教育を支えた方法
  • 明治の看護が現代につながる理由

※放送後詳しい内容が分かり次第追記します。

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一ノ瀬りんと大家直美のモデルは誰?

最初に結論からお伝えすると、連続テレビ小説『風、薫る』は、明治時代に看護の道を切り開いた大関和(おおぜき・ちか)と鈴木雅(すずき・まさ)をモチーフにした物語です。

見上愛さんが演じる一ノ瀬りんには大関和、上坂樹里さんが演じる大家直美には鈴木雅の歩みが重ねられています。

ただし、ドラマの登場人物は実在した本人をそのまま再現したものではありません。

登場人物の名前や家族関係、会話、出来事の順番などには創作が含まれます。そのため、次のように分けて考えると理解しやすくなります。

  • 一ノ瀬りん・大家直美はドラマ上の人物
  • 大関和・鈴木雅は物語のモチーフとなった実在人物
  • ドラマの出来事と史実がすべて一致するわけではない

「モデル」と聞くと、実在人物の生涯をそのまま描く伝記ドラマのように感じるかもしれません。

しかし今回は、2人が生きた時代や仕事、看護への思いを土台にしながら、新しい人物と物語を作り上げた作品と考えるのが自然です。

たしかにこれは少し混同しやすいところです。実在モデルの人生を知ったうえでドラマを見ると、どの部分が史実を下敷きにしているのかを考える楽しみも増えてきます。

大関和は何をした人?

大関和は、明治時代に西洋式の専門教育を受け、看護婦の育成や地域医療、感染症予防に取り組んだ人物です。

現在の栃木県大田原市にあたる地域で生まれ、結婚後は子どもを育てながら生活していました。しかし夫との死別などを経験し、自分で生きていく道を探すなかで看護を志します。

1887年、大関和は東京の桜井女学校附属看護婦養成所に第1期生として入学しました。

同じ第1期生のなかにいたのが鈴木雅です。

ここで2人は、病室の整え方や患者の観察、衛生管理など、西洋式の看護を学びました。単に患者の身の回りを世話するのではなく、知識と技術を身につけた専門職を目指したのです。

養成所を卒業した大関和は、帝国大学医科大学第一医院で働きました。その後、新潟県高田、現在の上越市にある知命堂病院へ移り、初代看護婦長を務めています。

知命堂病院では患者を看護するだけでなく、後輩となる看護婦の教育にも携わりました。

大関和の仕事で特に重要なのは、看護を病院の中だけで終わらせなかった点です。

当時は感染症が流行しても、現在のように衛生に関する知識が広く共有されていませんでした。病気のときは長期間入浴しない、生水をそのまま飲む、部屋の換気を十分に行わないといった習慣もありました。

大関和は地域の人々に対し、次のような衛生上の注意を伝えています。

  • 汗を拭いて衣服を清潔に保つ
  • 家の中を換気する
  • トイレやごみを扱う場所に注意する
  • 感染症流行時は生水や生ものを避ける
  • 食べ物は煮たり焼いたりして口にする

現代では基本的な衛生対策に見えますが、当時は十分に知られていない内容でした。

個人的には、病院で働くだけでなく、暮らしの中へ衛生知識を届けた点が大関和の大きな功績だと感じます。医療を受けられる人だけでなく、地域全体を病気から守ろうとしていたことが伝わってきます。

鈴木雅の「タブー破りの仕事」とは?

鈴木雅は、看護婦を患者の自宅や病院へ派遣する組織を作り、女性が看護によって収入を得られる仕組みを整えた人物です。

桜井女学校附属看護婦養成所で学んだ後、帝国大学医科大学第一医院で内科の看護婦長を務めました。

しかし、当時の病院で手厚い医療を受けられるのは、主に経済的に恵まれた人たちでした。

病気になっても病院へ行けない人や、自宅で看護を必要としている人は少なくありません。そこで鈴木雅は1891年、看護婦を必要な場所へ派遣する慈善看護婦会を設立します。

この組織は、後に東京看護婦会へと改称されました。

派出看護婦会は、依頼を受けた看護婦が患者の家庭や病院へ出向き、一定期間看護を行う仕組みです。現在の訪問看護とまったく同じ制度ではありませんが、看護を必要な場所へ届ける先駆的な取り組みでした。

鈴木雅は、経済的に苦しい人に無償で看護を行う一方、支払いが可能な家庭からは正当な料金を受け取る仕組みを作りました。

ここには2つの意味があります。

1つは、所得にかかわらず、できるだけ多くの患者へ看護を届けることです。

もう1つは、看護婦が善意だけに頼らず、仕事として生活を成り立たせられるようにすることでした。

明治時代には、女性は家庭を守るものだという考え方が強く残っていました。女性が組織を作り、依頼を受け、報酬を管理して働くことは、現在よりはるかに高い壁があったと考えられます。

さらに鈴木雅は、看護婦を単なる住み込みの世話係として扱わせないため、仕事の範囲や休息に関する決まりも設けました。

看護婦に本来の看護と関係のない雑用をさせないことや、重い患者を看護するときには休む時間を確保することなどです。

初めて知ると少し驚きますが、100年以上前から「専門職にどこまで仕事を頼むのか」「働く人の休息をどう守るのか」という問題があったことになります。

鈴木雅の仕事が「タブー破り」といえるのは、女性が働いたことだけではありません。

看護には専門的な価値があり、その仕事には正当な対価が必要だと、制度によって示したことが大きかったのです。

2人が学んだ桜井女学校附属看護婦養成所とは?

大関和と鈴木雅が看護を学んだ桜井女学校附属看護婦養成所は、日本の近代看護教育の初期を支えた施設です。

桜井女学校は、後に女子学院へとつながる女子教育機関でした。そこに看護婦養成所が設けられ、1887年から本格的な教育が始まります。

指導にあたったのは、アメリカで看護を学んだ宣教師のマリア・ツルーです。

養成所では、経験や勘だけに頼るのではなく、患者の状態を観察し、衛生的な環境を整え、医師と協力して看護する方法が教えられました。

当時、病人の世話は家族や付き添い人が担うことが一般的でした。そのため、学校で学ばなければできない専門的な仕事として、看護を理解してもらうことから始めなければなりませんでした。

専門教育を受けた看護婦は、英語の「trained nurse」からトレインドナースと呼ばれることがあります。

これは、単に患者の世話をした経験がある人ではなく、一定の教育と実習を受けた看護婦を意味します。

大関和と鈴木雅が第1期生だったことは、完成された職業へ入ったというより、まだ社会に定着していない職業を自分たちで形にしていったことを意味します。

学校を卒業すればすぐ安定した地位が約束されたわけではありません。働く場所を作り、看護の価値を伝え、後輩を育てるところまで自分たちで進めていきました。

資格を取った後に働くのが当たり前の現代と比べると、2人が背負っていたものの大きさを実感します。

大山捨松はなぜ看護婦養成を支えた?

大山捨松は、日本人女性として早い時期にアメリカへ留学し、現地で看護を学んだ人物です。

幼名は山川咲子といい、会津藩の出身でした。岩倉使節団に同行する女子留学生の1人として、1871年にアメリカへ渡っています。

留学中には大学教育を受けただけでなく、コネチカット州の看護婦養成所で短期間の看護教育を受け、看護婦免状を取得しました。

帰国した捨松が直面したのは、アメリカで見た医療や女子教育と、日本の現状との大きな違いでした。

当時の日本には、専門教育を受けた女性が看護を担う仕組みが十分に整っていませんでした。また、女性が高等教育を受け、その知識を職業や社会活動に生かす道も限られていました。

捨松は、看護婦を育てる施設の必要性を訴え、そのための資金集めにも取り組みます。

1884年には、鹿鳴館で慈善バザーを開きました。政府高官の妻たちなど多くの女性が協力し、収益は看護婦教育を支えるために寄付されました。

この資金は、有志共立東京病院の看護婦教育所開設を後押ししたとされています。

大山捨松がすべてを1人で実現したわけではありません。

海外で看護を学んだ捨松、医療制度を整えようとした医師、資金集めに協力した女性たち、実際に看護を学んだ生徒たちが、それぞれの立場で動いた結果、近代看護の土台が作られていきました。

ここで見逃せないのが、女性たちの連帯です。

当時の女性は政治や職業の場へ直接参加する機会が限られていました。それでも慈善活動や女子教育を通じて、人と資金を集め、社会を変える役割を果たしました。

個人的には、華やかな鹿鳴館のイメージとは異なり、その場が看護教育の資金を生み出すためにも使われた点が印象に残ります。社交の場を、女性が社会課題へ関わる入口に変えたところに大きな意味があります。

大山捨松と桜井女学校の関係はどう考える?

大山捨松について調べる際には、複数の看護婦養成施設を混同しないことが大切です。

明治初期には、近代看護教育の始まりに関係する施設が複数ありました。

代表的なものには、次のような施設があります。

  • 有志共立東京病院看護婦教育所
  • 桜井女学校附属看護婦養成所
  • 日本赤十字社の看護婦養成所

大山捨松が鹿鳴館の慈善バザーなどを通じて開設を後押ししたのは、有志共立東京病院の看護婦教育所です。

一方、大関和と鈴木雅が第1期生として学んだのは、桜井女学校附属看護婦養成所でした。

どちらも日本の近代看護教育を考えるうえで重要ですが、同じ施設ではありません。

ただし、捨松が広げた看護教育や女性の社会参加への関心は、特定の学校だけで完結するものではありませんでした。

その後、さまざまな女性や教育者、医療関係者が動き、複数の看護婦養成施設が作られていきます。大関和と鈴木雅の学びも、その大きな流れの中に位置づけられます。

「大山捨松が2人を直接育てた」と単純に結びつけるのではなく、捨松は看護教育の必要性を社会へ示し、女性たちが学べる環境を広げた先駆者の1人と捉えるとわかりやすいでしょう。

明治時代の看護婦はなぜ低く見られていた?

現在、看護師は専門的な知識と国家資格を必要とする医療職です。

しかし明治初期には、「専門教育を受けた看護婦」という職業そのものが、まだ社会に定着していませんでした。

病人の世話は家族がするもの、あるいは身の回りの雑用をする人に任せるものという考え方が残っていたからです。

当時の看護婦が直面した壁は、大きく分けて3つありました。

看護が専門職だと理解されていなかった

患者の食事や清潔を保ち、病状を観察し、医師の治療を支えるには知識が必要です。

ところが当時は、看護と家事や雑用の境目が理解されにくく、看護婦にさまざまな用事を頼むケースもありました。

女性が家庭外で働くことへの抵抗があった

女性が結婚や家庭生活とは別に職業を持つことは、現在ほど一般的ではありませんでした。

特に病院や他人の家庭へ出向いて働く看護婦は、それまでの女性像から外れる存在と見られることもありました。

教育や資格の基準が統一されていなかった

看護婦と名乗る人が全員、同じ教育を受けていたわけではありません。

短期間の講習を受けた人、経験だけで働く人、専門的な養成所を卒業した人が混在し、看護の質に差が生まれていました。

大関和や鈴木雅は、この状況を変えるために教育の充実や仕事のルール作りに力を注ぎました。

看護婦の地位を高めるには、「立派な仕事です」と訴えるだけでは足りません。教育内容を整え、働き方を定め、安心して任せられる専門職であることを示す必要があったのです。

これは現代の資格制度にも通じる考え方です。

専門職への信頼は、本人の熱意だけではなく、教育、技術、倫理、労働環境が一体となって生まれるものだとわかります。

大関和が人生の集大成として取り組んだ仕事

新潟県高田で地域医療と看護教育に取り組んだ大関和は、1896年に東京へ戻り、鈴木雅が経営していた東京看護婦会の講習所で教えるようになります。

その後、看護婦の教育や地位の向上を求めて活動を続けました。

当時は十分な教育を受けずに看護婦として働く人もおり、看護の質をどのように保つかが課題となっていました。

大関和は行政へ働きかけ、一定の基準や規則を設ける必要性を訴えます。

1900年には東京府で看護婦規則が制定されました。

これですべての問題が解決したわけではありませんが、看護婦を公的なルールのもとで扱おうとする動きが進んだことは重要です。

1901年には東京看護婦会の経営を引き継ぎ、1909年には大関看護婦会を設立しました。同時に大関看護婦講習所を開き、看護婦の養成を続けています。

大関和の歩みを整理すると、仕事の範囲が次第に広がっていることがわかります。

  • 患者を直接看護する
  • 病院で看護婦をまとめる
  • 地域住民へ衛生知識を伝える
  • 看護婦を教育する
  • 看護の質を守る制度を求める
  • 自ら養成と派遣の組織を運営する

つまり、大関和の人生の集大成は、1人でも多くの患者を自分で看護することだけではありませんでした。

自分がいない場所でも、適切な看護を届けられる人と仕組みを残すことだったと考えられます。

個人的には、この点がいちばん大事だと感じます。優れた看護婦が1人活躍するだけでなく、その知識を次の世代へ渡すことで、助けられる人の数は大きく増えるからです。

東京看護婦会は現在の訪問看護と同じ?

東京看護婦会は、看護婦を患者の家庭などへ派遣していたため、現代の訪問看護の先駆けとして紹介されることがあります。

ただし、現在の訪問看護と完全に同じ制度だったわけではありません。

現代の訪問看護は、医師の指示や医療保険・介護保険の制度に基づき、訪問看護ステーションなどから看護師が利用者の自宅へ向かいます。

一方、明治時代の派出看護婦会は、公的な保険制度が整う前に作られた民間の組織でした。家庭や病院から依頼を受け、所属する看護婦を派遣する仕組みです。

共通するのは、病院へ来られる人を待つのではなく、看護を必要とする人のいる場所へ出向くという考え方です。

異なる点は、制度、費用の仕組み、医師との連携方法、看護師の資格基準などです。

「明治時代に現在の訪問看護制度が完成していた」と受け取るのではなく、在宅の患者へ看護を届ける発想がすでに生まれていたと理解するのがよいでしょう。

看護婦から看護師へ呼び方が変わった理由

大関和や鈴木雅が活動した時代には、一般に看護婦という名称が使われていました。

現在の正式な呼び方は看護師です。

2002年3月から、男女共通の名称として看護師が使われるようになりました。それ以前は、女性を看護婦、男性を看護士と呼び分けていました。

歴史上の制度や組織名を説明する場合には、当時の名称である「看護婦」を使う必要があります。

そのため、この記事でも東京看護婦会や看護婦養成所など、歴史的な固有名詞は当時の表記にしています。

一方、現代の職業について触れる場合は看護師と表記するのが自然です。

呼び方の変化からも、かつて看護が女性の仕事と強く結びつけられていたことがわかります。

大関和や鈴木雅は、女性の働く道を広げた人物でした。同時に、その後の制度整備によって、看護は性別を問わず担う専門職へ変化していきました。

3人の功績はどうつながっている?

大山捨松、大関和、鈴木雅は、それぞれ異なる立場から日本の近代看護を支えました。

大山捨松

海外で看護を学んだ経験を生かし、看護婦教育の必要性を伝えました。慈善活動や女性同士の協力によって、養成施設を支える資金と社会的な関心を集めました。

鈴木雅

患者のもとへ看護婦を派遣する組織を作りました。看護を必要とする人へ届けると同時に、女性が専門職として報酬を得られる仕組みを整えました。

大関和

病院や地域で看護と衛生教育に取り組み、後進を育てました。さらに看護婦の質を守る規則を求め、自ら講習所と看護婦会を運営しました。

3人に共通しているのは、自分だけが活躍するのではなく、次の女性が学び、働き、社会で役割を持てる場所を作ったことです。

看護婦養成所がなければ、専門知識を学ぶ機会がありません。

学んでも働く組織がなければ、職業として続けられません。

働く場所があっても、教育や仕事の基準がなければ、専門職としての信頼を保てません。

教育、雇用、制度という複数の土台が少しずつ整えられたことで、近代看護は社会に根づいていきました。

女性の社会進出という面で何が新しかった?

明治時代の看護婦は、女性が家庭の外で専門知識を使って働く、新しい職業の1つでした。

看護の道が開かれたことで、女性は仕事を通じて収入を得られるだけでなく、責任ある役割も担えるようになります。

大関和や鈴木雅は、看護婦長、講師、養成所の運営者、看護婦会の経営者として働きました。

これは、誰かの指示を受けて補助的な仕事をしただけではありません。人を育て、組織を管理し、行政へ制度改善を求める立場まで進んだことを意味します。

ただし、看護婦という職業が生まれたからといって、女性を取り巻く不平等がすぐになくなったわけではありません。

低い評価や不安定な待遇、長時間の看護、職業への偏見など、多くの問題が残っていました。

それでも、女性が専門教育を受け、仕事として社会に参加できることを実践によって示した点は大きな一歩でした。

3人の歩みを知ると、「女性の社会進出」は華やかな成功物語だけではなく、教育を受ける場所、働く仕組み、職業を守る規則を1つずつ作る過程だったことが見えてきます。

史実を確認するときに気をつけたいこと

大関和や鈴木雅について調べると、施設名や組織名が時期によって異なるため、少しわかりにくく感じることがあります。

確認するときは、次の3点を見ると整理しやすくなります。

施設名が同じか

有志共立東京病院看護婦教育所と桜井女学校附属看護婦養成所は、別の施設です。

組織名が変わっていないか

鈴木雅が設立した慈善看護婦会は、後に東京看護婦会へと名称を変えました。

ドラマの人物と実在人物を分けているか

一ノ瀬りんと大家直美は、大関和と鈴木雅をモチーフにした登場人物であり、本人そのものではありません。

歴史上の人物を知るときは、「日本初」という表現にも注意が必要です。

何を基準にするかによって、日本初の看護婦、日本初の看護教育、日本初の派出看護婦会など、指している内容が変わります。

たとえば、海外で看護教育を受けた日本人女性、国内の養成所で学んだ看護婦、病院に所属した看護婦では、それぞれ意味が異なります。

実際に調べるなら、人物名だけでなく、施設名、設立年、どのような教育や活動を「初」としているのかまで確認したいところです。

明治ナース誕生の歴史から見えてくること

日本の近代看護は、1人の有名人によって突然作られたものではありません。

海外で学びを得た女性、資金集めに動いた女性、養成所で教えた人、実際に看護を学んだ人、病院や家庭で患者を支えた人たちの積み重ねによって形づくられました。

大山捨松は、看護教育を始めるための社会的な支援を広げました。

鈴木雅は、看護を必要な場所へ届け、看護婦が職業として働く仕組みを作りました。

大関和は、患者の看護から地域の衛生、後進の教育、制度への働きかけまで役割を広げました。

現在、病院や自宅で専門的な看護を受けられる背景には、こうした先人たちが「看護は知識と技術を必要とする仕事である」と示し続けた歴史があります。

ドラマの人物を入口に実在モデルの人生をたどると、物語の見え方も変わります。

制服や仕事ぶりだけでなく、女性が学ぶこと、働いて収入を得ること、専門職として認められることが、当時どれほど大きな挑戦だったのかが伝わってくるからです。

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