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江戸城内堀の門と難攻不落の防御、大奥の高給と皇居東御苑・本丸天守台の秘密|火曜の良純孝太郎

歴史

江戸城内堀から皇居東御苑の本丸へ!260年の徳川幕府を守った城の仕組みと大奥の知られざる世界

2026年10月20日放送のテレビ朝日系『絶景&世界遺産 火曜の良純孝太郎』では、石原良純さんと小泉孝太郎さんが、東京の中心に残る江戸城の内堀を巡り、将軍が暮らした本丸を目指す歴史探訪が展開されます。

徳川15代、およそ260年にわたって幕府の政治の中心だった江戸城。今回のテーマは、敵の侵入を防ぐために築かれた門と堀の防御システムです。巨大な石垣や巧みに配置された城門を通して、江戸城が堅固な城郭だった理由に迫ります。

さらに、現在の皇居東御苑に残る本丸跡にも足を踏み入れます。将軍の妻や奥女中が暮らした大奥では、重要な役職に就く女性が高い報酬を受け取っていたという、意外な一面も取り上げられます。

旅の最後に待つのは、江戸城の象徴である天守台。かつて巨大な天守がそびえていた場所を通して、徳川将軍が見つめた江戸の景色と、城に込められた歴史をたどります。

※放送後詳しい内容が分かり次第追記します。

この記事でわかること

  • 江戸城の内堀と城門に隠された防御システム

  • 桜田門・田安門・清水門などに残る江戸城の歴史

  • 皇居東御苑の本丸・大奥跡と奥女中の仕事内容や給料

  • 江戸城天守台の歴史と皇居東御苑の見学方法・アクセス

江戸城はなぜ難攻不落だった?内堀と門に隠された防御システム

皇居東御苑の大手門

出典:宮内庁「皇居東御苑開園前の風景」

江戸城の強さを支えていたのは、巨大な石垣や深い堀だけではありません。城内への出入り口となる門の配置そのものに、敵の進軍を食い止める工夫が凝らされていました。

江戸城の歴史は、1457年に太田道灌が築いた城にさかのぼります。1590年に徳川家康が入城すると、大規模な整備が進められ、家康・秀忠・家光の時代を通じて巨大な城郭へと発展しました。

1630年代には堀や石垣、門などの整備が進み、江戸城は将軍の居城であると同時に、全国を統治する幕府の政治拠点となりました。

その防御構造を理解するうえで重要なのが、**桝形門(ますがたもん)**と呼ばれる仕組みです。

桝形門は、城門の内側に四角い空間を設け、その先にもう一つの門を配置する構造です。

主に次のような仕組みで敵の侵入を防ぎました。

  • 高麗門(こうらいもん):最初に通過する外側の門

  • 桝形の空間:石垣や塀に囲まれ、侵入した敵の動きを制限する場所

  • 櫓門(やぐらもん):内側に配置され、上部から敵を攻撃できる門

  • 高い石垣:周囲から攻撃する側が守られた兵を容易に突破できない構造

特に重要なのは、外側の門を突破しても、一直線に城の中心部へ進めないことです。

門の位置をずらして進行方向を変えさせることで、攻撃側の速度を落とし、守備側が有利になるように設計されていました。

さらに、城を取り巻く堀は、大人数の兵が一斉に攻め込むことを難しくします。橋と門の周辺に通行経路を限定することで、守備側が重要な場所に兵力を集中させやすくなるのです。

江戸城が難攻不落と呼ばれる背景には、こうした複数の防御設備を組み合わせた城郭設計がありました。

桜田門・田安門・清水門に残る江戸城の防御の秘密

江戸城の門の仕組みは、現在も皇居周辺に残る歴史的建造物から確かめられます。

なかでも桜田門、田安門、清水門は、国の重要文化財に指定されている貴重な城門です。

桜田門|大規模な桝形が残る城門

皇居外苑にある桜田門は、江戸城の防御構造を知るうえで代表的な場所です。

高麗門と櫓門を組み合わせた桝形の構造がよく保存されており、環境省によると、その桝形は15間×21間の規模を持ちます。

現在残る江戸城の城門のなかでも、特に大規模な桝形です。

また、桜田門は1860年に大老・井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変」の舞台としても知られています。

軍事上の要衝であると同時に、幕末の歴史を大きく動かした場所でもあります。

田安門|1636年の姿を伝える門

北の丸公園の北側に位置する田安門は、現在残る旧江戸城の建築遺構のなかでも特に古いものです。

現在の高麗門は1636年に建立されたもので、江戸城の大規模整備が進められた時代の建築技術を伝えています。

門を構成する石垣と桝形の配置には、徳川幕府が築いた城郭の特徴がよく残されています。

清水門|急な石段まで防御に利用

北の丸公園の東側に位置する清水門は、1658年に再建された城門です。

高麗門と櫓門による防御構造に加え、「雁木坂(がんぎざか)」と呼ばれる石段にも特徴があります。

この石段は段差が高く、不揃いに造られており、敵が容易に駆け上がれないようにする工夫が施されています。

城門を突破した後の移動経路まで防御に組み込んでいたことが、江戸城の設計の巧妙さを物語っています。

なお、これらは江戸城の防御構造を現在に伝える代表的な門であり、番組内で巡る門のすべてを示すものではありません。

皇居東御苑の大手門から本丸へ!将軍を守った3つの番所

江戸城の中心部に入ると、外側の堀や門とは異なる防御の仕組みが見えてきます。

現在の皇居東御苑では、旧江戸城の三の丸から本丸へと続く地域に、警備を担当した武士たちの番所が残っています。

江戸時代の江戸城では、門を通過した後にも何段階もの警備が行われていました。

同心番所

大手門から城内に進むと、江戸時代の建物である同心番所があります。

「同心」と呼ばれる下級武士が勤務していた警備施設です。屋根瓦には徳川将軍家の葵の家紋と、皇室の菊の御紋を見ることができます。

百人番所

百人番所は、本丸へ向かう重要な通路に設けられていた警備施設です。

建物の長さは約45メートル。江戸城に残る番所のなかでも、その横長の外観が目を引きます。

ここでは甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組という4組の鉄砲百人組が、昼夜交替で警備を担当していました。

各組は20人の与力と100人の同心によって構成されており、大勢の武士が城の中心部を守っていたことがわかります。

大番所

本丸に近い場所を守っていたのが大番所です。

ここでは比較的位の高い武士が警備にあたっていました。

江戸城から皇居へと変わった後、この建物は別の用途に使われましたが、1968年の皇居東御苑開園に際して江戸時代の姿に復元されています。

同心番所、百人番所、大番所を見比べると、将軍のいる本丸に近づくほど警備の重要性が増していく構造を理解できます。

江戸城本丸はどんな場所だった?表・中奥・大奥に分かれた将軍の御殿

皇居東御苑の中心部に広がる本丸大芝生は、かつて江戸城の本丸御殿が建っていた場所です。

現在の芝生からは想像しにくいものの、江戸時代には政治、儀式、将軍の生活を支える大規模な建物群が並んでいました。

本丸御殿は、大きく3つの区域に分かれていました。

  • 表(表向):将軍と大名の対面、幕府の儀式や政治が行われる場所

  • 中奥(なかおく):将軍が日常生活を送る私的な空間

  • 大奥(おおおく):将軍の妻である御台所や側室、奥女中たちが生活する場所

江戸城は単なる軍事施設ではなく、政治の中枢であり、将軍の住居でもあったのです。

本丸には、大名たちが将軍との対面を待つ部屋や、公式儀式を行う大広間、将軍の生活を支える多くの部屋が設けられていました。

現在の皇居東御苑には、本丸御殿の建物そのものは残っていません。しかし、かつての施設があった場所を示す史跡が整備されています。

その一つが「松の大廊下跡」です。

1701年、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかった刃傷事件が起きた場所として知られています。

この事件は、後に赤穂浪士の討ち入りへとつながり、「忠臣蔵」の物語として広く知られるようになりました。

本丸には、江戸時代の政治や生活だけでなく、歴史を大きく動かした事件の記憶も残されています。

男子禁制の大奥とは?将軍の妻を支えた女性たちの仕事

今回の江戸城探訪で特に興味深いテーマとなるのが、大奥の実態です。

大奥は、将軍の妻である御台所や側室、将軍の子どもたちなどが生活した場所でした。

男性の立ち入りが厳しく制限されていたことで知られていますが、そこは単に女性たちが暮らすだけの空間ではありませんでした。

多くの奥女中が役職ごとに仕事を分担し、将軍家の生活を支える組織として機能していたのです。

国立公文書館の資料には、将軍付きだけでも百数十人の女中が働き、さらに御台所に仕える女性たちもいたことが記されています。

14代将軍・徳川家茂の時代には、約400人の奥女中が居住していたという記録もあります。

奥女中には細かな役職の違いがありました。

  • 上臈御年寄(じょうろうおとしより):大奥女中の最高位にあたる役職

  • 御年寄(おとしより):大奥の運営に強い影響力を持つ役職

  • 御中臈(おちゅうろう):将軍や御台所の身辺の世話を担当

  • 御表使(おもてづかい):対外的な連絡や折衝を担当

  • 御右筆(おゆうひつ):文書作成などの仕事を担当

  • 御半下(おはした):雑用や日常の仕事を担当

大奥の女性たちは、役職に応じて組織運営、文書、渉外、身の回りの世話などを分担していました。

また、「男子禁制」といっても、すべての男性が一切立ち入れなかったわけではありません。

医師が診察のために入る場合や、公務上必要な場合などには、決められた手続きや立ち会いのもとで例外が認められていました。

大奥は厳格な規則によって運営された、将軍家の生活を支える重要な組織だったのです。

大奥の女性は高給取りだった!御年寄の給料はどのくらい?

大奥の奥女中は、その役職によって報酬に大きな差がありました。

上級職の女性たちは、江戸時代の一般的な庶民とは大きく異なる待遇を受けていました。

東京大学史料編纂所教授を務めた歴史学者・山本博文氏の講演資料「華麗なる江戸城大奥の世界―仕事と生活―」には、奥女中の給金について具体的な記録が紹介されています。

例えば、御年寄の待遇は次のようなものでした。

  • 切米:50石

  • 扶持:10人扶持

  • 合力金:80両

切米とは、米で支給される俸禄のことです。

扶持は生活を支えるために支給される米などの待遇で、合力金は現金として支給される手当でした。

この講演資料では、御年寄の報酬を現代の金額に換算すると、約2600万円に10人扶持を加えた待遇に相当するという試算が示されています。

ただし、江戸時代の貨幣価値は時期や換算方法によって大きく変わるため、この金額が現代の年収2600万円と厳密に同じ意味になるわけではありません。

ほかの役職についても、次のような待遇が紹介されています。

  • 御表使:8石・3人扶持・合力金30両

  • 御祐筆・呉服の間:7石・3人扶持・合力金20両

  • 御末:4石・1人扶持・合力金2両

上位の役職と下位の役職で、報酬に大きな差があったことがわかります。

さらに、1744年には30年以上勤務した女中に対する年金制度も設けられました。

大奥勤めは、単に華やかな生活を送る仕事ではなく、職務や序列が定められた奉公でもありました。

高額な報酬の背景には、将軍家に仕える立場の重さや、重要な情報を扱う責任、厳格な生活規則などがありました。

皇居東御苑に残る大奥跡と謎の石室

江戸城の大奥は、現在の皇居東御苑の本丸地区にありました。

本丸御殿はすでに失われていますが、園内には大奥跡の場所が示されています。

また、大奥があった地域の近くには、「石室(いしむろ)」と呼ばれる石造りの施設が残されています。

石室の内部は約20平方メートルの広さで、石を積み上げた独特の構造をしています。

この施設については、江戸城の秘密の抜け道だったという説や、金などの財宝を保管する蔵だったという説など、さまざまな伝承がありました。

宮内庁は、実際には火災などの非常時に、大切な物を避難させておく場所だったと考えられると説明しています。

江戸城では何度も大規模な火災が発生しており、重要な物品を守るための設備が必要でした。

石室は、華やかな大奥の裏側にあった、防火や財産保護という実務的な側面を伝える貴重な遺構です。

江戸城天守台の秘密!高さ58メートルの天守はなぜ再建されなかった?

江戸城探訪の終着点となるのが、本丸の北側に残る天守台です。

現在は巨大な石垣の土台だけが残っていますが、江戸時代の初期には、その上に壮大な天守がそびえていました。

江戸城には3度にわたって天守が建設されました。

最後に建てられたのは、3代将軍徳川家光の時代である1638年に完成した天守です。

  • 完成:1638年

  • 建設時の将軍:3代・徳川家光

  • 建物の構造:5層6階

  • 高さ:天守は地上から約58メートル

  • 焼失:1657年の明暦の大火

  • その後:天守台のみ再建され、天守は再建されず

江戸城の天守は、日本の城郭建築のなかでも最大級の規模を誇っていました。

ところが、1657年に発生した明暦の大火によって全焼します。

翌年には天守台が再建されましたが、天守そのものは建て直されませんでした。

その背景にいたのが、会津藩主の保科正之です。

保科正之は4代将軍・徳川家綱の叔父にあたり、将軍を補佐する立場にありました。

正之は、平和な時代には天守が必要ないという考えを示しました。

江戸の復興を優先するなかで、この意見が採用され、江戸城の天守は再建されないまま幕末を迎えました。

巨大な天守がなくても、江戸城は幕府の政治拠点として機能し続けたのです。

現在の皇居東御苑では、天守台に上がって周囲を眺めることができます。

ただし、今見える景色は、約58メートルの天守の最上部から眺める景色とは異なります。

かつての建物の高さを想像すると、江戸城が周囲の町に対してどれほど圧倒的な存在だったかが感じられます。

将軍が見た江戸の景色!富士見櫓と現在の皇居東御苑

江戸城で将軍が眺めた景色を知るうえでは、富士見櫓も重要な存在です。

富士見櫓は本丸の南側に位置し、高さ約16メートルの三重の屋根を持つ建物です。

江戸城に現存する三重の屋根を持つ櫓としては、唯一のものです。

1657年の明暦の大火で焼失しましたが、1659年に再建されました。

その後、天守が再建されなかったこともあり、富士見櫓は江戸城の象徴的な建物として重要な役割を担いました。

江戸時代には、この櫓から将軍が富士山や品川の海、両国の花火などを眺めることもあったと伝えられています。

現在では周辺に高層ビルが立ち並び、江戸時代と同じ風景を見ることはできません。

それでも、皇居の緑と都心のビル群が並ぶ眺めには、かつての江戸と現在の東京が重なり合う魅力があります。

皇居東御苑の展望台付近からは、二の丸や大手町方面の街並みを眺めることもできます。

天守台、富士見櫓、現在の展望台をそれぞれの歴史と合わせて知ることで、江戸城が東京の発展と深く結びついてきたことがわかります。

皇居東御苑の見学方法・入園料・開園時間・アクセス

江戸城の本丸跡を訪れてみたい人にとって、皇居東御苑は身近に江戸時代の歴史を感じられる場所です。

旧江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部を整備した庭園で、1968年10月1日から一般公開されています。

面積は約21万平方メートルあり、歴史的遺構だけでなく、庭園や季節の植物なども楽しめます。

基本情報

  • 施設名:皇居東御苑

  • 所在地:東京都千代田区千代田1

  • 入園料:無料

  • 事前予約:不要

  • 休園日:原則として月曜日・金曜日、12月28日~1月3日

  • その他:宮中行事などにより休園となる場合あり

10月の開園時間

  • 開園:9時

  • 閉園:16時30分

  • 最終入園:16時

開園時間は季節によって異なります。祝日の公開や振替休園もあるため、訪問前に宮内庁の公開情報を確認しておくと安心です。

主な出入口とアクセス

大手門は、三の丸から本丸方面へ向かう際に利用しやすい入口です。

  • 大手門:東京メトロ・都営地下鉄の大手町駅C13a出口から徒歩約5分

  • 大手門:JR東京駅丸の内北口から徒歩約15分

  • 平川門:東京メトロ東西線竹橋駅1a出口から徒歩約5分

  • 北桔橋門:東京メトロ東西線竹橋駅1a出口から徒歩約5分

江戸城の警備の仕組みを意識して散策するなら、大手門から入り、同心番所・百人番所・大番所を見ながら本丸方面へ向かうと、歴史を理解しやすくなります。

本丸では松の大廊下跡や大奥跡、天守台などを見学できます。

また、二の丸地区には回遊式の庭園があり、江戸城の遺構と自然が調和した風景も楽しめます。

まとめ

2026年10月20日の『絶景&世界遺産 火曜の良純孝太郎』は、江戸城の内堀と城門を巡りながら、徳川幕府の政治と生活を支えた城の構造をたどる内容です。

桝形門や堀に組み込まれた防御の知恵、本丸へ向かう途中に設けられた厳重な警備、そして男子禁制の大奥で働いた女性たちの意外な高待遇。江戸城には、外敵を防ぐ軍事施設としての顔と、将軍家の暮らしを支える巨大な組織としての顔がありました。

さらに、1657年の大火で焼失した天守を再建しなかった歴史からは、戦いの時代から平和な時代へと移り変わる徳川幕府の姿も見えてきます。

現在の皇居東御苑には、天守台や番所、大奥跡などの史跡が残されており、かつての江戸城の姿をたどることができます。

参考リンク


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