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菊田昇医師の赤ちゃんあっせん事件|金曜ミステリークラブ!!! 出生証明書偽造から特別養子縁組制度成立まで

事件

菊田昇医師が出生証明書を偽造してまで赤ちゃんを託した理由

2026年9月25日放送の日本テレビ『金曜ミステリークラブ!!!』では、昭和の日本社会を揺るがした産婦人科医による「赤ちゃんあっせん事件」が取り上げられます。

中心人物は、宮城県石巻市で産婦人科医院を開いていた菊田昇医師です。菊田医師は、事情があって自分で育てられない女性が出産した赤ちゃんを、子どもを望む夫婦へ託し、養親の「実子」として戸籍に登録できるよう虚偽の出生証明書を作成していました。

明確な違法行為だった一方、この事件を契機の1つとして法整備が進み、1987年に現在へつながる特別養子縁組制度が成立しました。こども家庭庁も、菊田医師事件などが制度創設の契機になったと説明しています。

この記事でわかること

  • 菊田昇医師が起こした赤ちゃんあっせん事件の内容
  • 出生証明書を偽造した理由と約220件に及んだ実子あっせん
  • 違法行為を自ら公表して制度改革を訴えた経緯
  • 1987年の特別養子縁組制度成立へつながった流れ

菊田昇医師は1960年ごろから「実子あっせん」を始めた

菊田昇医師は1926年、宮城県石巻市生まれ。医師となった後、1958年から石巻市で産婦人科などを診療する医院を開きました。

菊田医師が後に「実子あっせん」と呼ばれる行為を始めたのは、1960年ごろです。

対象となったのは、中絶できる時期を過ぎながら、それでも妊娠を続けることが難しい事情を抱えて医院を訪れた女性たちでした。

菊田医師は女性を説得して出産してもらい、生まれた赤ちゃんを子どもを望んでいる夫婦へ託していました。1973年4月に自身の行為を公表するまでの件数は約100件に達していました。

養親の「実子」にするため出生証明書を偽造した

事件の最大の問題となったのが出生証明書の偽造です。

当時の制度では、生みの親と子どもの法律上の親子関係を終了させ、養親との間だけに実の親子と同じ法律関係を成立させる現在の特別養子縁組制度は存在していませんでした。

そこで菊田医師は、実際には出産していない養母が赤ちゃんを産んだとする出生証明書を作成。養親夫婦がその赤ちゃんを自分たちの子として出生届を出せるようにしていました。

戸籍上も「養子」ではなく夫婦の実子として登録するための行為でした。

最高裁判決に記された事実関係では、菊田医師は1973年4月に実子あっせんを公表した後も約120件を続けています。

公表前の約100件と合わせると、裁判資料で確認できるだけでも約220件に及びます。

1973年に自ら行為を公表し法改正を求めた

菊田医師が異例だったのは、違法行為を隠し続けるのではなく、1973年に自ら社会へ公表したことです。

地域紙には、生まれたばかりの赤ちゃんを自分の子として育てたい人を募集する広告も掲載しました。

目的は単に秘密裏に養子縁組を続けることではなく、現在の制度では救えない赤ちゃんがいることを社会へ訴え、新しい養子制度を作ることでした。

当時のインタビューでも菊田医師は、赤ちゃんの命を守るためであれば自分が処罰されることは小さな問題だという趣旨の考えを語っています。

行為の是非とは別に、ここが事件の大きな転換点でした。

ひそかに行われていた出生証明書の偽造が社会問題として表面化したことで、「育てられない実親」「子どもを迎えたい夫婦」「家庭を必要とする子ども」を法律上どのように結び付けるのかという問題が広く議論されるようになります。

菊田昇医師は罰金刑と医業停止処分を受けた

もちろん、「赤ちゃんを救うため」という目的があれば出生証明書を偽造してよいと認められたわけではありません。

菊田医師は1975年12月にも実子あっせんを行い、実際には出産していない女性が男子を出産したとする出生証明書を作成しました。

この1件について医師法違反、公正証書原本不実記載・同行使の罪に問われ、1978年3月、仙台簡易裁判所で罰金20万円の略式命令を受けています。

さらに指定医師としての資格取り消しなどをめぐって争い、医業停止6カ月の行政処分も受けました。菊田医師側は処分の取り消しを求めましたが、最終的に認められませんでした。

当時の日本母性保護医協会も1973年の段階で、生命を扱う医師であっても法律を破るべきではないという立場を示しています。

つまり菊田医師の行動は、当時から「子どもの命を救う行為」と「医師による違法な戸籍操作」という2つの側面を持ち、大きな議論を巻き起こしていました。

赤ちゃんあっせん事件が1987年の特別養子縁組制度へつながった

菊田医師が求めていたのは、偽の出生証明書を作らなくても、子どもが新しい家庭で安定した親子関係を築ける制度でした。

社会で議論が続いた末、1987年の民法改正で特別養子縁組制度が創設され、1988年から運用が始まりました。

こども家庭庁の資料でも、1973年の菊田医師事件などを契機に、子どもの福祉を積極的に確保する制度として1987年に特別養子縁組が成立したことが明記されています。

特別養子縁組では普通養子縁組と違い、成立すると実父母との法律上の親族関係が終了し、養親との間に実の親子と同様の法律関係が成立します。

現在は家庭裁判所が子どもの利益を中心に審査して成立を決める制度です。

菊田医師が違法な方法で実現しようとしていた「子どもが新しい家庭の実子として安定して育つ仕組み」が、最終的には法制度として整えられたことになります。

出生証明書偽造が残した「出自を知る権利」の問題

一方、菊田医師の方法には後年まで残る問題もありました。

出生証明書を偽造して養親の実子として登録すると、子ども自身が将来、自分を産んだ母親や出生の経緯をたどることが極めて難しくなります。

実際、菊田医師のあっせんで育ったとされる当事者が、自身の出生を確認しようとしても十分な記録にたどり着けない事例が報じられています。

子どもを家庭につなぐだけでなく、その子どもが成長した後に自分の出自をどう知ることができるのか。

現在の養子制度を考えるうえでも重要な問題です。

赤ちゃんあっせん事件は「違法だったが多くの命を救った」という一言だけでは整理できません。救われた命がある一方、出生記録を事実と異なる形にしたことで生じた問題も残されました。

菊田昇医師は1991年に世界生命賞を受賞し65歳で死去

菊田医師は制度成立後も、子どもの生命や養子制度について活動を続けました。

1991年には、赤ちゃんの生命を守る活動などが評価され、国際生命尊重会議の「世界生命賞」を受賞しています。

その約4カ月後、菊田昇医師は65歳で亡くなりました。

1973年に違法な実子あっせんを公表してから約14年を経て特別養子縁組制度が成立し、その制度が実際に動き始めるところまで見届けたことになります。

現在の特別養子縁組制度

現在の特別養子縁組は、菊田医師が行っていた秘密の「実子あっせん」と同じものではありません。

子どもの利益を最優先し、家庭裁判所による手続きの中で成立します。

主な仕組みは次の通りです。

  • 養親は原則として夫婦共同で縁組する
  • 夫婦の一方が25歳以上、もう一方が20歳以上であることが必要
  • 養子となる子どもは原則15歳未満
  • 原則として実父母の同意が必要
  • 養親となる夫婦が6カ月以上監護した状況を家庭裁判所が確認
  • 成立後は実父母との法律上の親族関係が終了する
  • 養親と子どもの間に実親子と同様の法律関係が成立する

2020年4月には制度が改正され、養子となれる年齢の上限が原則6歳未満から原則15歳未満へ引き上げられるなど、利用できる範囲も広がりました。

まとめ

菊田昇医師の赤ちゃんあっせん事件は、宮城県石巻市の産婦人科医が、育てることのできない女性から生まれた赤ちゃんを子どもを望む夫婦へ託し、その夫婦の実子として届け出るため虚偽の出生証明書を作成した事件です。

1973年までに約100件、その後さらに約120件の実子あっせんを行ったことが裁判資料で確認されています。

出生証明書の偽造は違法であり、菊田医師は罰金刑や医業停止処分を受けました。

一方で、自らその行為を公表して新しい養子制度の必要性を訴え続けたことが社会的議論を大きくし、菊田医師事件などを契機として1987年に特別養子縁組制度が成立しました。

現在では、家庭裁判所が子どもの利益を審査し、実父母との法律関係を終了させて養親との間に新たな親子関係を成立させる制度として定着しています。

ただ、出生証明書の偽造によって出自をたどりにくくなった当事者もいます。

『金曜ミステリークラブ!!!』で扱われる赤ちゃんあっせん事件は、1人の医師による違法行為だけでなく、「子どもの命をどう守り、その後の人生までどう保障するのか」について日本の制度そのものを動かした出来事として見ると、その全体像が分かります。

参考リンク

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