竹中半兵衛が救った黒田官兵衛の息子・松寿丸は22年後、半兵衛の息子と関ケ原で共闘
2026年10月14日放送のNHK総合『歴史探偵』では、豊臣秀吉を支えた2人の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛の知られざる絆が取り上げられます。
2人の関係を象徴するのが、1578年に起きた黒田官兵衛の息子・松寿丸(しょうじゅまる)の救出劇です。
織田信長から裏切りを疑われた黒田官兵衛。その息子に処刑命令が下されたとき、竹中半兵衛が松寿丸をひそかにかくまい、命を救ったという伝承が残っています。
さらに22年後の1600年、関ケ原の戦いでは、救われた松寿丸こと黒田長政と、半兵衛の息子・竹中重門(たけなか・しげかど)が同じ東軍に参加しました。
2人は約5000人の兵とともに岡山(丸山)に布陣し、石田三成の軍勢と戦いました。
そして2026年10月6日から11月23日まで、岐阜関ケ原古戦場記念館では、竹中重門が晩年に著した『豊鑑』と豊臣家の歴史を紹介する企画展も開催されています。
この記事でわかること
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竹中半兵衛が黒田官兵衛の息子・松寿丸を救った伝承
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黒田長政と竹中重門が関ケ原で共闘するまでの経緯
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関ケ原の勝敗に関わった2人の布陣と戦い
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2026年開催の『豊鑑』企画展の料金・場所・見どころ
黒田長政と竹中重門は関ケ原で約5000人を率いて同じ陣に入った
公式映像:NHKオンデマンド『歴史探偵 竹中半兵衛と黒田官兵衛 知られざる涙の絆』
1600年、徳川家康率いる東軍と石田三成らの西軍が激突した関ケ原の戦い。
この戦いで、黒田官兵衛の息子・黒田長政と、竹中半兵衛の息子・竹中重門は、同じ場所に陣を構えました。
その場所が、現在の岐阜県関ケ原町にある「岡山(丸山)烽火場」です。
関ケ原での2人の基本情報
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黒田長政:黒田官兵衛の息子。幼名は松寿丸
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竹中重門:竹中半兵衛の息子。幼名は吉助
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所属:徳川家康率いる東軍
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布陣場所:岡山(丸山)烽火場
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標高:164m
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兵力:約5000人
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主な交戦相手:石田三成・島左近の軍勢
岡山は関ケ原の戦場を広く見渡せる丘陵地です。
2人はこの場所から戦況を確認し、開戦を知らせる狼煙を上げました。
その後、黒田隊と竹中隊は石田三成の軍勢に攻撃を仕掛けています。
約20年前、黒田家の子どもの命を守った竹中家。その両家の息子たちが、天下分け目の戦場で同じ陣に入ったのです。
1578年に黒田官兵衛が有岡城で幽閉され松寿丸へ処刑命令が下った
黒田家と竹中家の深い関係は、1578年の出来事にさかのぼります。
当時、黒田官兵衛は羽柴秀吉に仕え、中国地方への進出を支えていました。
ところが、織田信長の家臣だった荒木村重が反乱を起こします。
官兵衛は村重を説得するため、有岡城へ向かいました。
しかし、説得は成功せず、官兵衛は捕らえられて幽閉されます。
官兵衛が戻らないことを知った織田信長は、官兵衛も裏切ったと判断しました。
そして、秀吉のもとに人質として預けられていた官兵衛の息子・松寿丸を殺害するよう命じたと伝えられています。
松寿丸は1568年生まれで、当時は10歳前後でした。
父親が戻らないという理由で、まだ幼い息子の命まで危険にさらされたのです。
このとき松寿丸を救った人物として、地元に語り継がれているのが竹中半兵衛でした。
竹中半兵衛は松寿丸を美濃国岩手にかくまったと伝えられる
竹中半兵衛は、黒田官兵衛が本当に裏切ったのかを疑い、松寿丸を殺害せず、自分の領地である美濃国岩手へかくまったと伝えられています。
現在の岐阜県不破郡垂井町岩手にあたる場所です。
垂井町が公開している「竹中半兵衛の軍師としての活躍」の資料にも、この救出劇が紹介されています。
松寿丸がかくまわれた場所は、現在の五明稲荷神社付近と伝えられています。
さらに、この時期には半兵衛の息子・吉助(のちの竹中重門)と松寿丸が一緒に遊んでいたという話も残っています。
重門は1573年生まれなので、松寿丸より5歳ほど年下でした。
やがて有岡城から救い出された官兵衛は、織田家を裏切っていなかったことが明らかになります。
松寿丸も生き延び、その後、黒田長政として武将の道を歩みました。
なお、松寿丸の救出劇は、垂井町などに伝わる歴史的な逸話です。具体的な会話や処刑を回避した方法まで、すべてを同時代の史料で確定できる出来事として扱うことはできません。
それでも、この伝承は竹中家と黒田家の関係を語るうえで、重要な位置を占めています。
竹中半兵衛は1579年に36歳で病没し黒田官兵衛と再会できなかった
竹中半兵衛と黒田官兵衛が、ともに豊臣秀吉のもとで活動した期間は長くありませんでした。
半兵衛は1544年、美濃国大御堂で生まれました。
1564年には、わずかな家臣とともに稲葉山城を奪った逸話で知られています。
その後、秀吉のもとで活動するようになり、各地の戦いで重要な役割を果たしました。
1577年には官兵衛とともに、播磨の福原城や上月城の攻略に参加しています。
しかし、半兵衛はこの頃から病に苦しむようになります。
1579年3月には、病を押して播磨の三木城包囲陣に戻りました。
そして同年6月13日、陣中で亡くなりました。36歳でした。
黒田官兵衛が有岡城で幽閉された事件の後、両者が再びそろって活動することはありませんでした。
半兵衛が亡くなったとき、息子の竹中重門はまだ幼い年齢でした。
一方、命を救われた松寿丸は成長し、黒田長政として各地の戦いに参加するようになります。
半兵衛本人が関ケ原で戦うことはありませんでしたが、その後の歴史には竹中家と黒田家のつながりが残りました。
黒田長政は竹中重門を東軍へ誘い関ケ原の勝利に貢献した
1600年の関ケ原の戦いで、黒田長政は徳川家康率いる東軍に参加しました。
一方、竹中重門は当初、豊臣方に属していました。
しかし、垂井町の歴史資料では、重門は黒田長政の勧誘を受けて徳川方へ転じたと紹介されています。
関ケ原周辺の領主であった重門は、地元の地理をよく知る立場でもありました。
戦いでは、その土地勘を生かし、黒田隊とともに石田三成の軍勢へ攻撃を加えています。
特に黒田長政は、石田三成の軍勢への側面攻撃や、西軍武将への調略などで東軍の勝利に貢献しました。
また、竹中重門は戦後、西軍の有力武将だった小西行長を捕らえる武功を挙げています。
こうした活躍は、2026年の岐阜関ケ原古戦場記念館の企画展でも紹介されている重門の経歴の一部です。
重門は関ケ原の戦いの後も領地を維持し、竹中家は江戸時代に旗本として存続しました。
黒田長政も関ケ原での功績によって筑前国に大きな領地を与えられ、福岡藩の初代藩主となります。
半兵衛が救ったと伝わる少年は、やがて九州の大名へと成長したのです。
黒田家と竹中家の関係は江戸時代にも受け継がれた
関ケ原の戦いが終わった後も、両家の交流は続きました。
垂井町の歴史資料では、黒田長政が竹中重門の次男・重次を引き取り、手元で育てたことが紹介されています。
その後、重次は福岡藩士となりました。
また、竹中家の菩提寺である禅幢寺には、黒田官兵衛と黒田長政の戒名が並んだ位牌が安置されています。
黒田家と竹中家のつながりが、一時的な戦場での協力だけではなかったことを伝える資料です。
さらに、竹中家にゆかりのある「銀箔押一ノ谷形兜」は、後に黒田長政へ渡り、現在は福岡市博物館が所蔵しています。
竹中半兵衛と黒田官兵衛がともに活動したのは、わずか2年ほどでした。
しかし、その間に生まれた両家の関係は、息子たちの世代だけでなく、その後の交流にもつながっていきました。
竹中重門は晩年に豊臣秀吉の一代記『豊鑑』を著した
竹中重門は戦国武将として活動しただけでなく、歴史を書き残した人物でもあります。
重門が晩年に著したのが『豊鑑(とよかがみ)』です。
これは豊臣秀吉の生涯や、豊臣政権に関わる出来事を記した歴史書です。
重門は1573年に生まれ、1631年に亡くなりました。
幼い頃から秀吉に仕え、豊臣家の時代から徳川家の時代へ移り変わる大きな転換期を経験しています。
そんな重門が記した『豊鑑』は、豊臣秀吉の時代を後世へ伝える歴史資料のひとつとなっています。
そして2026年10月、この『豊鑑』を中心とした企画展が岐阜県で始まりました。
2026年10月6日~11月23日に関ケ原古戦場記念館で『豊鑑』企画展を開催
岐阜関ケ原古戦場記念館では、2026年10月6日から11月23日まで、秋季企画展「『豊鑑』からひもとく豊臣家とその戦い」が開催されています。
竹中重門が書いた『豊鑑』を手掛かりに、豊臣家の歴史や戦いを紹介する展覧会です。
企画展の基本情報
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展覧会名:『豊鑑』からひもとく豊臣家とその戦い
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開催期間:2026年10月6日(火)~11月23日(月・祝)
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会場:岐阜関ケ原古戦場記念館2階展示室
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住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
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開館時間:9:30~17:00
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最終入館:16:30
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休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
企画展期間中の入館料
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一般:1,000円
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高校生・大学生:800円
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中学生以下:無料
通常の入館料は一般500円ですが、この企画展の開催期間中は1,000円に変更されています。
主な展示資料
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『豊鑑』(林羅山旧蔵本)
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竹中半兵衛重治画像
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羽柴秀吉書状(羽柴秀長宛)
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羽柴秀吉書状(滝彦次郎宛)
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伝豊臣秀長所用の太刀
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文禄・慶長の役図屏風
竹中半兵衛の肖像画や、豊臣秀吉に関係する書状など、戦国時代の貴重な資料が展示されています。
また、2026年11月3日には、学芸員による展示資料のスライド解説も予定されています。
実用情報|黒田長政・竹中重門陣跡と記念館へのアクセス
黒田長政・竹中重門陣跡
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名称:岡山(丸山)烽火場
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住所:岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原732-27
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標高:164m
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史跡指定:国指定史跡
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アクセス:国道21号関ケ原バイパス瑞竜交差点から北へ車で約2分
ここは1600年の関ケ原の戦いで、黒田長政と竹中重門が同じ東軍として布陣した場所です。
岐阜関ケ原古戦場記念館
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住所:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
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電話:0584-47-6070
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開館時間:9:30~17:00
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JR関ケ原駅から徒歩約10分
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名神高速道路・関ケ原ICから車で約5分
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普通車駐車場:106台・無料
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見学所要時間:約60~90分
記念館では、関ケ原の戦いの全体像を映像展示や実物資料を通じて学べます。
企画展とあわせて黒田長政・竹中重門の陣跡を訪れると、2人がどのような場所で戦ったのか、地形を通じて理解できます。
まとめ
竹中半兵衛と黒田官兵衛は、豊臣秀吉を支えた2人の軍師として知られています。
1578年、官兵衛が織田信長から裏切りを疑われたとき、半兵衛は官兵衛の息子・松寿丸をかくまい、命を救ったと伝えられています。
その約22年後、1600年の関ケ原の戦いでは、松寿丸こと黒田長政と半兵衛の息子・竹中重門が東軍として共闘しました。
2人は同じ岡山(丸山)に陣を構え、石田三成の軍勢と戦っています。
そして関ケ原の戦いの後も、黒田家と竹中家の交流は続きました。
父の世代に生まれた関係が、息子たちの世代まで受け継がれ、天下分け目の戦いにもつながったこと。 それが竹中半兵衛と黒田官兵衛の物語を語るうえで、特に印象的な歴史です。
2026年には、竹中重門が著した『豊鑑』を紹介する企画展も開催されています。戦国武将の活躍だけでなく、その歴史がどのように後世へ伝えられたのかを知る機会にもなっています。
参考リンク
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