五・一五事件で「暗殺犯を軽くしてほしい」という声が全国へ広がった背景
2026年10月7日放送のNHK総合「歴史探偵 暗殺事件と日本人」では、幕末から昭和初期まで続いた要人暗殺と、それを日本社会がどう受け止めてきたのかが取り上げられます。
中でも大きな焦点となるのが、1932年5月15日に犬養毅首相が殺害された「五・一五事件」です。
事件後、青年将校らを厳罰にするどころか、全国で減刑を求める運動が広がりました。減刑嘆願書は100万を超えたとされ、殺人を伴う政治テロの実行者にこれほど大きな同情が集まったことは、その後の日本政治を考えるうえでも重要な出来事です。
この記事でわかること
- 五・一五事件で犬養毅首相が殺害された経緯
- 青年将校への減刑嘆願が全国へ広がった背景
- 「行為は悪いが動機は純粋」という世論が生まれた理由
- 五・一五事件が政党政治とその後の日本へ与えた影響
五・一五事件は1932年5月15日に犬養毅首相が殺害された事件
出典:国立国会図書館 憲政資料室「大木操 1932年5月15日の日記」
五・一五事件が起きたのは1932年5月15日です。
海軍の青年将校らを中心とする一団が首相官邸などを襲撃し、当時の内閣総理大臣だった犬養毅を銃撃しました。犬養はその日のうちに亡くなっています。
国立国会図書館に残る大木操の日記にも、事件当日の記録として、首相が官邸で襲撃され死亡したこと、陸海軍の将校や候補生が関わったことが残されています。
五・一五事件は、単独の暗殺事件ではありません。
首相官邸以外にも複数の場所が襲撃対象となり、青年将校たちは政治体制を変える「昭和維新」を掲げて行動していました。
背景には世界恐慌後の深刻な不況や農村の困窮、政党政治や財閥に対する不満、軍縮政策への反発などが重なっていました。若い軍人たちは、既存政治を倒して国家を作り替えるという思想へ傾いていきます。
減刑嘆願が広がった最大のポイントは「動機」への共感
現在の感覚からすると、現職首相を殺害した人物に全国から減刑を求める声が集まったことは理解しにくい出来事です。
重要なのは、当時の一部世論が事件そのものと、実行した青年将校の「動機」を切り離して受け止めたことです。
青年将校たちは、自分たちの利益や出世のためではなく、腐敗した政治を変え、苦しい生活を送る国民を救うために決起したという姿勢を裁判でも強く打ち出しました。
そのため、
- 暗殺という手段は間違っている
- しかし私利私欲で動いたわけではない
- 国を思って行動した若者ではないか
という見方が社会に広がっていきます。
不況や農村不振の中で既存政治に不満を持っていた人々にとって、「自分たちのために命を懸けた青年」というイメージは強い共感を生みやすいものでした。
五・一五事件を扱った研究では、陸海軍側の公判が始まった後、減刑嘆願運動が全国規模へ発展したことが確認されています。
裁判が青年将校への同情をさらに大きくした
事件発生直後だけでなく、公判が始まってから減刑運動が大きくなったことも五・一五事件の特徴です。
被告となった青年将校たちは法廷で、自分たちがなぜ決起したのか、なぜ既存政治を変えなければならないと考えたのかを訴えました。
そこで前面に出たのが、自分自身の利益を求めない「自己犠牲」の姿でした。
こうした主張が報道を通じて社会へ伝わるにつれ、単なる殺人事件の被告ではなく、「国を変えようとした純粋な若者」として見る人々が増えていきます。
結果として減刑を求める運動は全国へ拡大しました。
日本大百科全書では、五・一五事件をめぐって100万を超える減刑嘆願書が寄せられたとされています。
ここで注意したいのは、「国民全員が暗殺を支持した」という意味ではないことです。
むしろ、殺人という行為を否定しながらも、その背景にある政治不信や青年将校の動機へ共感するという、複雑な世論が形成されていったところにこの事件の怖さがあります。
軍内部からの圧力も裁判に影響した
減刑嘆願運動は、一般市民から自然に寄せられた同情だけで終わりませんでした。
軍人や国家主義団体なども運動へ関わり、裁判を取り巻く政治的な圧力が強まっていきます。
昭和初期のテロ事件と司法を分析した研究では、海軍側は当初、法に基づいた刑罰を科そうとしていました。
しかし、論告に反対する運動や軍内部からの圧力が強まり、結果として陸軍側と同様に寛大な判決が出されたと分析されています。
一方、通常の司法部はこうした政治的圧力から距離を取ろうとしたことも指摘されています。つまり、五・一五事件ではすべての裁判が一様に世論へ流されたわけではなく、軍法会議と通常司法との間にも違いがありました。
「世論が盛り上がったから刑が軽くなった」と単純化するより、世論、軍内部の力関係、司法制度が重なった結果として見る必要があります。
犬養毅の死後「政党が首相を出す政治」が途切れた
五・一五事件が歴史上重大なのは、首相1人が殺害されたからだけではありません。
犬養毅の死後、後継の首相となったのは海軍大将出身の斎藤実でした。
それまで続いてきた政党を基盤とする内閣の流れが途切れ、軍部の政治的な影響力が強まっていきます。
事件を起こした青年将校らが計画していた通りの政治体制がそのまま実現したわけではありません。
しかし、政治的暴力の後に政党内閣が終わったという事実は、日本政治に大きな意味を持ちました。
さらに、政治テロの実行者に対して大規模な減刑運動が起きたことは、「強硬な行動でも動機が支持されれば社会から受け入れられる」という危険な前例にもなっていきます。
中央公論新社も五・一五事件について、事件後に政党内閣が崩壊し、軍部が台頭した昭和戦前の大きな分岐点と位置づけています。
「話せばわかる」は本当に犬養毅の最後の言葉だったのか
五・一五事件を語る際によく知られているのが、
「話せばわかる」
という犬養毅の言葉と、それに対する、
「問答無用」
というやり取りです。
ただし、後世に広く知られるこの会話を、そのまま事件現場で交わされた確定した最後のやり取りとして扱うことには注意が必要です。
昭和館が所蔵する犬養毅関連資料にも、「『話せばわかる』と言ったか」という検証項目が設けられています。歴史的に有名な言葉である一方、その伝わり方自体も五・一五事件の記憶を形作った要素の一つです。
五・一五事件は、実際に起きた出来事だけでなく、その後に作られた「青年将校像」や「犬養毅像」まで含めて社会に大きな影響を与えました。
五・一五事件を理解するための実用情報
今回の「歴史探偵」を見る際は、次の3段階に分けて考えると事件の意味が分かりやすくなります。
- 1932年5月15日:犬養毅首相が殺害される
- 1933年:軍人側を中心とした公判が本格化し、減刑嘆願運動が全国へ拡大
- 事件後:政党内閣が途切れ、軍部の政治的影響力が強まる
特に見るべきなのは「暗殺が起きたこと」だけではありません。
政治的な暴力を社会がどう評価したのか、その評価が裁判や政治にどのような空気を生んだのかまで見ることで、五・一五事件が昭和史の大きな転換点とされる理由が見えてきます。
まとめ
五・一五事件では、1932年5月15日に海軍青年将校らが首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を殺害しました。
その後に起きたのが、実行した青年将校への大規模な減刑運動です。
背景には、不況や農村の困窮によって高まっていた政党政治への不信に加え、青年将校たちが「私利私欲ではなく国を変えるために立ち上がった」と受け止められたことがありました。
公判を通じて同情はさらに広がり、減刑嘆願書は100万を超えたとされています。
そして犬養の死後、政党を基盤とする内閣の流れは途切れました。
五・一五事件で注目すべきなのは、暗殺犯が何をしたかだけではありません。
政治的暴力に対して社会が「動機は理解できる」と共感していったこと、それが軍や政治、司法を取り巻く空気にまで影響していったことこそ、現在まで考える価値が残る大きなポイントです。
参考リンク
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