- ウォレン・ハーディング|自国の繁栄を取り戻そうとした第29代アメリカ大統領の功績と誤算
- ウォレン・ハーディングのプロフィール|新聞社経営者からアメリカ大統領へ
- 1899年に政界入り|人との関係づくりを武器に大統領候補へ
- 1920年大統領選挙で圧勝|「平常への復帰」が支持された背景
- 1921年の緊急関税法|アメリカの農業を守るために輸入品へ課税
- 1922年フォードニー・マッカンバー関税法|自国優先を制度として強化
- ヨーロッパの戦争債務と高関税|アメリカへ輸出できないという矛盾
- 1929年の世界恐慌との関係|ハーディングが直接引き起こしたわけではない
- ワシントン海軍軍縮会議|自国優先だけではなかった外交政策
- 政府の予算制度改革|1921年に成立した重要な法律
- ティーポット・ドーム事件|大統領の評価を変えた汚職問題
- 1923年に57歳で急死|大統領としての仕事は2年5か月で終わった
- ハーディングが残した歴史的な教訓|国内保護と国際協力の難しさ
- まとめ
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ウォレン・ハーディング|自国の繁栄を取り戻そうとした第29代アメリカ大統領の功績と誤算
第一次世界大戦が終わったアメリカで、「平常への復帰」を訴え、大統領選挙に圧勝した人物がいます。第29代アメリカ大統領のウォレン・G・ハーディング(Warren G. Harding)です。
新聞社の経営者から政治家に転身し、1921年に大統領へ就任。自国の農業と産業を守るために輸入品へ高い関税を課し、政府支出の抑制や減税を進めました。
ところが、アメリカの生産者を保護する政策には、国際貿易を難しくする側面もありました。特にヨーロッパ諸国は、アメリカへ商品を輸出して外貨を稼ぐことが難しくなり、第一次世界大戦で抱えた債務の返済にも影響が生じます。
2026年10月19日放送予定のNHK総合『映像の世紀バタフライエフェクト「こうして世界大戦は始まった」』でも、ハーディング大統領の自国優先政策が取り上げられます。
ハーディングは1923年、在任中に57歳で急死しました。そのため、1929年の世界恐慌や1930年代の保護貿易政策を自ら指揮したわけではありません。
それでも、彼の政権が進めた高関税政策は、その後の国際経済を理解するうえで重要な転換点となりました。新聞経営者から大統領への道のり、政策が生まれた背景、世界への影響、そして汚職事件によって揺らいだ評価を紹介します。
この記事でわかること
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ウォレン・ハーディング大統領の生涯と新聞経営者から政治家になった経緯
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1921年・1922年に成立した高関税法と、自国産業を守ろうとした理由
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ヨーロッパの戦争債務、世界恐慌、保護貿易政策の歴史的な関係
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ワシントン海軍軍縮会議の功績とティーポット・ドーム事件による評価の変化
ウォレン・ハーディングのプロフィール|新聞社経営者からアメリカ大統領へ

ウォレン・ハーディングは、1865年にオハイオ州で生まれ、1921年から1923年まで第29代アメリカ大統領を務めた政治家です。
基本プロフィール
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氏名:ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding)
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生年月日:1865年11月2日
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出生地:アメリカ・オハイオ州コーシカ(現在のブルーミング・グローブ)
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死去:1923年8月2日
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享年:57歳
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所属政党:共和党
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主な前職:新聞経営者、オハイオ州議会上院議員、連邦上院議員
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大統領在任期間:1921年3月4日~1923年8月2日
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副大統領:カルビン・クーリッジ
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主な政策:高関税、減税、政府支出の抑制、移民制限、海軍軍縮
ハーディングの経歴で特徴的なのは、法律家や軍人ではなく、地方新聞の編集・経営から社会的な地位を築いたことです。
幼いころから新聞印刷の仕事に触れ、1882年にオハイオ・セントラル・カレッジを卒業。その後、法律の勉強や教職、保険販売などにも挑戦しました。
しかし、いずれの仕事も長続きしませんでした。
そこで転機となったのが、友人2人と共同で購入した地方新聞「マリオン・スター(Marion Star)」です。
経営状態のよくなかった新聞を立て直すため、ハーディングは広告営業や地域との関係づくりに力を注ぎました。
新聞の発行だけでなく、地元の企業や政治家、住民とのつながりを広げていきます。
この経験が、後に政治家として支持を集める土台になりました。
1899年に政界入り|人との関係づくりを武器に大統領候補へ
新聞経営者として成功を収めたハーディングは、1899年にオハイオ州議会上院議員に当選しました。
当時から、人の名前や顔を覚えることが得意で、相手に親しみを感じさせる人柄だったと伝えられています。
政治家として大切にしていたのは、党内での対立をなるべく避け、幅広い人々と関係を築くことでした。
1914年には連邦上院議員に当選し、ワシントンでの政治活動を始めます。
ただし、連邦議会で目立った立法上の実績を残した政治家ではありませんでした。
むしろ、同僚議員との良好な関係や、党内の調整役としての適性が評価されていました。
1920年の共和党大統領候補を決める党大会では、有力候補者たちが対立し、候補者を一本化できない状態が続きます。
そこで浮上したのが、特定の勢力から強く反対されにくいハーディングでした。
10回目の投票で共和党の大統領候補に選出されます。
新聞社の経営者から州議員、連邦議員を経て、大統領候補へと進んだのです。
1920年大統領選挙で圧勝|「平常への復帰」が支持された背景
ハーディングが大統領選挙で掲げた中心的な考え方は、「Return to Normalcy(平常への復帰)」でした。
当時のアメリカは、第一次世界大戦が終わって間もない時期でした。
戦争によって経済や人々の生活が大きく変化し、ヨーロッパの戦後復興や国際政治への関わり方も重要な問題となっていました。
さらに国内では、物価の変動、失業、労働争議などが起きていました。
こうした状況の中で、ハーディングは戦争以前の落ち着いた生活と、国内経済の安定を取り戻すことを訴えました。
演説では、急激な改革よりも社会の回復や安定を重視する姿勢を示しています。
その方針は、アメリカの利益を優先し、国際政治への関与を慎重に考える姿勢とも結び付いていました。
1920年11月の大統領選挙では、民主党候補のジェームズ・コックスに勝利。
一般投票で約60%の得票を獲得する圧勝でした。
そして1921年3月4日、第29代アメリカ大統領に就任します。
ただし、ここで重要なのは、当時のアメリカが単に世界との関係を断とうとしていたわけではないことです。
ハーディング政権は、アメリカの利益を優先しながらも、必要な国際交渉には参加していました。
その姿勢が、経済政策と外交政策の双方に表れています。
1921年の緊急関税法|アメリカの農業を守るために輸入品へ課税
ハーディング政権の経済政策を理解するうえで、最初の重要な法律が1921年5月27日に成立した「緊急関税法(Emergency Tariff Act)」です。
第一次世界大戦中、ヨーロッパでは戦闘によって農業生産が大きな影響を受けました。
そのため、アメリカの農産物は海外から強く求められ、生産者は輸出によって利益を得ていました。
しかし、戦争が終わると状況が変わります。
ヨーロッパの農業生産が回復し、アメリカの農産物に対する需要が縮小しました。
一方で、戦時中に生産を拡大していたアメリカの農業では、供給量が多くなり、価格が下落する問題が発生していました。
農家の経営を守るために、政府が取り入れたのが輸入品への高い関税です。
関税とは、海外から商品を輸入する際に課される税金のことです。
輸入品の価格が高くなれば、国内で生産された商品が価格面で競争しやすくなります。
緊急関税法の主な特徴
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成立:1921年5月27日
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大統領:ウォレン・G・ハーディング
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主な目的:アメリカ国内の農業生産者を保護すること
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内容:農産物を中心に輸入関税を引き上げる
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性格:一時的な保護措置
ハーディングは、国内産業の保護によって戦後不況からの回復を支えようとしました。
しかし、高関税政策はアメリカ国内だけで完結するものではありません。
輸入品がアメリカ市場で売れにくくなれば、その商品を生産する外国にも影響が及びます。
この問題は、翌1922年にさらに大きくなります。
1922年フォードニー・マッカンバー関税法|自国優先を制度として強化
1922年9月21日、ハーディング大統領は「フォードニー・マッカンバー関税法(Fordney–McCumber Tariff Act)」に署名しました。
この法律は、1921年の緊急関税法に続いて、輸入品への高い関税を本格的に導入するものでした。
名前の由来は、法案に関わったジョセフ・フォードニー下院議員と、ポーター・マッカンバー上院議員です。
法律の重要なポイント
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成立:1922年9月21日
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目的:アメリカ国内の農業・製造業を外国製品との競争から保護する
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内容:1913年の関税法で引き下げられた関税水準を再び引き上げる
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特徴:一定の条件で大統領が関税率を最大50%引き上げたり引き下げたりできる仕組みを設ける
この法律には、単に一律で関税を高くするだけではなく、外国と国内の生産費用の差を考慮する仕組みが含まれていました。
国内企業にとっては、外国の安価な商品との競争を抑える利点があります。
しかし、輸入品を購入するアメリカの消費者や企業にとっては、価格上昇につながる負担も生まれます。
そして、さらに大きな問題となったのが、ヨーロッパとの経済関係でした。
ヨーロッパの戦争債務と高関税|アメリカへ輸出できないという矛盾
第一次世界大戦後、ヨーロッパの国々は大きな戦争債務を抱えていました。
特にイギリスやフランスなどは、戦争中にアメリカから資金を借りていました。
これらの国がアメリカへ借金を返すには、アメリカの通貨であるドルを確保する必要があります。
ドルを得る方法の一つが、自国の商品をアメリカへ輸出することでした。
ところが、ハーディング政権の高関税政策によって、ヨーロッパの商品はアメリカ市場へ入りにくくなりました。
ここに戦後経済の大きな矛盾がありました。
アメリカはヨーロッパに戦争債務の返済を求める一方、ヨーロッパが輸出によってドルを得ることを難しくしていたのです。
アメリカ国務省の歴史資料でも、フォードニー・マッカンバー関税法によって、ヨーロッパ諸国が輸出収入を得て戦争債務を返済することが難しくなったと説明されています。
この問題を理解するには、当時のドイツも含めた資金の流れを見る必要があります。
ドイツは第一次世界大戦の敗戦国として、連合国への賠償金支払いを求められていました。
一方、連合国の中には、アメリカへ戦争債務を返済する必要がある国もありました。
ヨーロッパの国々が互いに資金を支払い、アメリカにも返済するという複雑な経済関係が存在していたのです。
そこへ、アメリカによる輸入制限が加わりました。
一国の産業を守るための政策が、国際的な資金循環を難しくする一因となったことが、この関税政策の歴史的な問題です。
1929年の世界恐慌との関係|ハーディングが直接引き起こしたわけではない
ハーディング政権の高関税政策は、その後の世界恐慌を考える際にも取り上げられます。
ただし、歴史の順序を正確に理解する必要があります。
ハーディングが亡くなったのは1923年です。
世界恐慌のきっかけとなったニューヨーク株式市場の大暴落は、6年後の1929年に発生しました。
さらに、世界恐慌の中で国際貿易への影響が大きな議論となった「スムート・ホーリー関税法」が成立したのは1930年です。
このときの大統領は、ハーディングではなくハーバート・フーヴァーでした。
重要な出来事の時系列
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1921年:ハーディング政権が緊急関税法を成立させる
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1922年:フォードニー・マッカンバー関税法が成立する
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1923年:ハーディング大統領が死去する
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1929年:ニューヨーク株式市場が大暴落する
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1930年:フーヴァー政権でスムート・ホーリー関税法が成立する
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1930年代:各国の保護貿易政策や経済危機が国際関係を悪化させる
アメリカ国務省の歴史資料では、スムート・ホーリー関税法が世界恐慌をどの程度悪化させたのかについて、研究者の間で見解が分かれていると説明されています。
その一方で、各国が自国産業を守るために貿易制限を強めたことが、国際協力を難しくした点は重要です。
1921年と1922年の高関税政策は、1930年代の保護貿易へと続く歴史の中に位置付けられます。
ハーディング一人の判断によって世界恐慌や第二次世界大戦が起きたのではありません。
自国の利益を優先する政策が、国際経済の相互依存関係と衝突していく過程を理解することが大切です。
ワシントン海軍軍縮会議|自国優先だけではなかった外交政策
ハーディング政権には、保護貿易とは異なる重要な外交上の実績があります。
それが、1921年11月から1922年2月まで開催された「ワシントン海軍軍縮会議」です。
第一次世界大戦後、各国は巨大な軍艦を建造し、軍事力の拡大を進めていました。
特にアメリカ、イギリス、日本の間では、海軍力をめぐる競争が問題になっていました。
戦争で多くの資金を使った国々にとって、新たな軍拡競争は大きな負担です。
こうした背景から、アメリカは主要国を招いて軍縮交渉を行いました。
会議では、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアが主力艦の保有量を制限する条約を締結しています。
代表的なのが、主力艦の保有比率を定めた次の内容です。
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アメリカ:5
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イギリス:5
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日本:3
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フランス:1.75
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イタリア:1.75
この「5:5:3」という比率は、日本の近代史でも重要な出来事として知られています。
会議では、このほか中国の領土保全などについても協定が結ばれました。
ハーディング政権は、国際連盟への加盟には消極的でしたが、軍縮のための国際交渉には参加していたのです。
この事実からも、ハーディングの外交を単純な孤立主義だけで説明することはできません。
経済面では国内産業を守ろうとし、軍事面では国際協定を通じて負担の軽減を目指していました。
両方の政策を合わせて見ることで、当時の政権の特徴がより明確になります。
政府の予算制度改革|1921年に成立した重要な法律
ハーディングの功績として、もう一つ重要なのが政府の予算制度改革です。
1921年6月10日、「予算・会計法(Budget and Accounting Act)」が成立しました。
第一次世界大戦を経て、アメリカの連邦政府では財政支出の管理が大きな課題となっていました。
そこで、政府全体の予算を統一的に管理し、議会による会計監査を強化する仕組みが整えられました。
この法律によって設置されたのが、予算局と政府会計検査機関です。
現在のアメリカ連邦政府の予算制度にもつながる重要な改革でした。
ハーディングは、企業活動に対する政府の介入を抑え、行政運営を効率化することを重視していました。
関税や減税だけでなく、政府の運営方法そのものにも改革を進めていたことがわかります。
ティーポット・ドーム事件|大統領の評価を変えた汚職問題
ハーディング政権の評価を大きく下げたのが、「ティーポット・ドーム事件(Teapot Dome Scandal)」です。
この事件は、政府が管理していた石油備蓄地をめぐる汚職事件でした。
問題となったのは、ワイオミング州のティーポット・ドームなどにある海軍用石油備蓄地です。
ハーディング政権の内務長官アルバート・フォールは、競争入札を行わず、民間の石油会社へ土地の利用権を与えました。
その後の調査で、フォールが関係企業から金銭などを受け取っていたことが明らかになります。
事件の調査が始まったのは1922年です。
しかし、議会による本格的な公聴会が行われ、広く知られるようになったのは、ハーディングが亡くなった後の1923年から1924年にかけてでした。
最終的にフォールは有罪となり、刑務所へ収監されます。
アメリカ上院の公式記録では、閣僚経験者が収監されることになった最初の事件として紹介されています。
一方、ハーディング本人がこの汚職から直接利益を得たと認定されたわけではありません。
問題は、信頼して重要な役職に任命した人物が、その立場を私的な利益のために利用していたことでした。
人との良好な関係を大切にしてきたハーディングにとって、その人脈が政権の弱点にもなったのです。
1923年に57歳で急死|大統領としての仕事は2年5か月で終わった
1923年6月、ハーディングはアメリカ西部やアラスカを巡る長期視察旅行に出発しました。
国民と直接触れ合い、政府の政策を説明するための旅でした。
しかし、旅行の途中で体調を崩します。
アラスカから戻る途中で状態が悪化し、サンフランシスコのホテルで療養することになりました。
1923年8月2日、ハーディングは57歳で死去します。
当時の診断や後年の歴史資料では、死因の説明に違いがありますが、心臓や血管に関わる急性の異変によって亡くなったとされています。
大統領在任期間は、わずか2年5か月でした。
その後は副大統領のカルビン・クーリッジが大統領に就任します。
ハーディングの死後、政権内部の汚職事件が次々と明らかになり、彼の評価は大きく揺らぎました。
1920年の大統領選挙では圧倒的な支持を集めた政治家でしたが、後世では汚職事件と結び付けて記憶されることが多くなったのです。
ハーディングが残した歴史的な教訓|国内保護と国際協力の難しさ
ハーディングの経済政策には、国内の農業や企業を守るという明確な目的がありました。
第一次世界大戦後、失業や農産物価格の下落に苦しむ人々にとって、自国の産業を保護する政策は魅力的でした。
実際に、ハーディングはその方針を掲げて大統領選挙に勝利しています。
しかし、外国の商品を買わないことによって自国の産業を守る仕組みには、別の問題も生まれます。
貿易相手国の輸出収入が減れば、相手国の経済が弱くなり、その結果として国際貿易全体にも影響が及びます。
特に第一次世界大戦後のヨーロッパは、戦争債務や賠償金という問題を抱えていました。
各国の経済が深く結び付いていたため、一国の貿易政策がほかの国の財政や産業にも影響しました。
ハーディング政権の高関税政策は、この問題を理解するための重要な事例です。
一方で、ワシントン海軍軍縮会議のように、国際的な協力によって軍事負担を軽減しようとした実績もありました。
ハーディングという政治家を理解するには、保護貿易の影響だけでなく、財政改革、軍縮外交、そして政権内部の汚職問題を合わせて見る必要があります。
その評価が一面的ではないところに、彼の短い大統領在任期間が残した歴史の複雑さがあります。
まとめ
ウォレン・ハーディングは、新聞経営者から政治家に転身し、1921年に第29代アメリカ大統領へ就任した人物です。
第一次世界大戦後の社会を立て直すため、「平常への復帰」を訴え、国内産業を保護する高関税政策を進めました。
1921年の緊急関税法、1922年のフォードニー・マッカンバー関税法は、アメリカの農業や産業を守るための政策でしたが、ヨーロッパ諸国の輸出や戦争債務の返済にも影響を与えました。
一方で、ワシントン海軍軍縮会議を開催するなど、国際協調につながる外交上の実績も残しています。
1923年に57歳で亡くなった後は、ティーポット・ドーム事件などの汚職問題によって、政権の評価が大きく変化しました。
ハーディングの歴史から見えてくるのは、国内の利益を守る政策と、他国との経済的な関係を維持することの難しさです。
1920年代のアメリカが選択した高関税政策は、その後の世界経済と国際関係を考えるうえでも、重要な歴史的事例として残されています。
参考リンク
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