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従軍看護婦は戦地で何をさせられた?ビルマ・フィリピンの看護と帰国後の苦しみ【時をかけるテレビで紹介】

歴史

戦場で「救うこと」を奪われた看護婦たち

負傷した人を救うために学んだ看護婦たちが、戦場では薬も食料も足りない状況に置かれ、ときには看護とは正反対の命令まで受けていました。『時をかけるテレビ 池上彰 女たちの太平洋戦争 従軍看護婦 激戦地の記録(2026年7月24日放送)』では、従軍看護婦の証言と記録から、ビルマやフィリピンで起きた現実が伝えられました。戦争が医療者の心と倫理をどう壊したのか、帰国後まで続いた苦しみも含めて見ていきます。

この記事でわかること

  • 従軍看護婦は戦地で何をしていたのか
  • 戦時救護班が派遣された仕組み
  • 患者への「処置」命令が生まれた背景
  • 帰国後も続いた心の傷と戦争神経症

看護師が足りない 医療現場の危機はなぜ起きているのか 患者と向き合う時間が減る理由と病院はどうなるのか【首都圏情報ネタドリ!で話題】

従軍看護婦は戦地で何をさせられたのか

従軍看護婦は、戦地の病院や病院船などで負傷兵や病気の兵士を看護した女性たちです。

ところが、戦況が悪化すると仕事は通常の看護から大きく外れていきました。薬や包帯が不足するなかで大勢の傷病兵を受け入れ、治療が終わっていない兵士を前線へ戻すよう求められることもありました。

撤退時には、自力で動けない重症患者を連れて行けないという問題も生じます。フィリピンでは、重症患者を敵の捕虜にしないため、看護婦が命を奪う行為に関わるよう命じられたという証言も残されています。

つまり、従軍看護婦が経験したのは、単なる「危険な場所での看護」ではありません。

人を救うための知識や技術を持ちながら、救う相手を選ばされ、救えない現実を受け入れさせられる状況でした。

初めて知ると少し驚きますが、個人の善意や努力ではどうにもならないほど、戦場の医療体制そのものが崩れていたのです。

日本赤十字社の戦時救護班とは

日本赤十字社では、平時から戦時の救護活動を想定して看護婦を養成していました。

戦争が始まると、軍からの要請に応じて看護婦、医師、薬剤師などで構成される戦時救護班が編成され、国内外の軍病院や兵站病院へ派遣されます。

当時の日本赤十字社の看護婦は、高等女学校を卒業した後、専門教育を受けた女性たちでした。しかし戦争が長期化すると、通常は3年だった養成期間が短縮されるなど、人員を早く確保するための変更も行われました。

派遣された人の多くは20代前半で、なかには10代の看護婦もいました。既婚者や幼い子どもを残して戦地へ向かった人もいたとされています。

当時は、国に尽くすことや傷病兵を救うことが、看護婦の誇りとして強く教えられていました。そのため、本人が使命感を持って赴いた場合もあれば、組織の命令や社会の空気のなかで、断るという選択を持ちにくかった場合もあったと考えられます。

「志願したのだから本人が望んで行った」と単純に見るのも、「全員が強制的に連れて行かれた」と決めつけるのも適切ではありません。

個人的には、本人の意思だけでなく、断ることが現実的に可能だったのかを見ることが大切だと感じます。

従軍看護婦は軍人だったのか

従軍看護婦は、戦闘を目的とする兵士ではありません。

日本赤十字社から派遣された救護員は、赤十字の立場で傷病者を看護する存在でした。ただし、実際の派遣先では軍の指揮や命令を受け、軍の移動に合わせて病院を移すなど、軍事組織のなかで活動していました。

そのため、身分上は兵士と同じではなくても、戦場では自由に行動できる立場ではありませんでした。

上官から命令を受けたとき、現代の医療現場のように異議を申し立てたり、別の施設へ患者を移したりすることは困難です。

ここを理解しないと、後に語られる「なぜ命令を拒否できなかったのか」という疑問に答えられません。

従軍看護婦は、看護婦として患者を守ろうとする立場と、軍の命令に従わなければならない立場の間に置かれていたのです。

ビルマではマラリアと薬不足が看護を追い詰めた

現在のミャンマーにあたるビルマでは、日本軍がラングーンを占領し、各地に兵站病院を設置しました。

兵站病院は、前線から運ばれてきた傷病兵を治療し、回復させるための施設です。しかし、ビルマでは戦闘による負傷だけでなく、マラリアやデング熱、赤痢などの病気が兵士と看護婦を苦しめました。

マラリアの治療に使われたキニーネは、開戦によって輸入が難しくなり、十分な量を確保できませんでした。

薬が少なければ、すべての患者に同じ治療を行うことはできません。症状の重さだけでなく、階級や軍の都合が薬の配分に影響することもありました。

看護婦自身が感染症にかかり、看護を続けられなくなる例もありました。患者が増え続ける一方で、看護する人と薬が減っていく状態です。

たしかにこれは気になります。医療者がいくら献身的に働いても、薬や食料、移送手段がなければ救える命には限界があります。

戦地医療の問題は、看護婦の技量や努力ではなく、補給を含めた作戦全体の問題だったのです。

インパール作戦で病院まで最前線になった

1944年3月、日本軍はビルマから山岳地帯を越え、インド北東部のインパールを攻撃する作戦を始めました。

ところが、兵士に十分な食料や医薬品を届ける体制が整わないまま作戦が進められました。険しい山道や雨季にも阻まれ、前線では飢えや感染症に苦しむ兵士が増加します。

作戦は1944年7月に中止されましたが、撤退路では多数の兵士が亡くなりました。戦闘による負傷だけでなく、飢餓や病気による犠牲が大きかったことが、この作戦の特徴です。

傷病兵が増えれば、後方の兵站病院へ送ればよいと思うかもしれません。

しかし戦線が後退すると、それまで後方だった地域も攻撃を受けるようになります。病院自体が安全な場所ではなくなり、看護婦も患者とともに撤退しなければなりませんでした。

さらに、入院中の兵士を十分に回復していない状態で部隊へ戻すよう命じられた例もあります。

看護婦にとっては、ようやく命をつないだ患者を再び危険な場所へ送り出すことになります。看護する意味そのものを見失いかねない状況だったことがわかります。

ビルマからの撤退で何が起きたのか

日本軍がビルマで劣勢になると、各地の兵站病院にも撤退命令が出されました。

看護婦たちは軍医や衛生兵とともに、限られた食料を持って長距離を歩きました。雨や暑さ、感染症に苦しみながら、銃撃を避けて移動しなければなりません。

すべての患者を連れて行けるわけではなく、歩けない人をどうするのかという厳しい判断も迫られました。

一方、日本軍は食料を確保するため、現地住民から物資を取り上げることがありました。軍事情報が漏れることを恐れ、案内をした住民が殺害されたとする証言もあります。

当初、日本軍を欧米の支配から解放してくれる存在として期待した住民のなかにも、その行動に失望し、反発する人が増えていきました。

ビルマで起きたことを見ると、日本人の被害だけを追うのでは不十分です。

看護婦たちも過酷な状況に置かれていましたが、同時に、日本軍の進出によって生活や命を奪われた現地の人々がいたことも忘れてはなりません。

フィリピンでは空襲と撤退のなかで看護が続いた

フィリピンでは、1944年からアメリカ軍による反攻が本格化しました。

マニラ周辺の輸送船や軍事施設が攻撃され、病院にも多くの負傷者が運ばれます。1945年にアメリカ軍がルソン島へ上陸すると、日本軍と病院は島の北部へ追い詰められていきました。

看護婦たちは空襲で仲間を失い、自分自身も死と隣り合わせの状態で患者の手当てを続けました。

病院として使える建物がなくなると、使われなくなった金鉱山の坑道などに患者を収容しました。坑道には十分な明かりも衛生設備もなく、薬や食料も不足します。

患者が亡くなっても、悲しむ時間はありません。すぐに次の患者へ対応しなければならなかったからです。

このような環境で感情を保ち続けるのは難しかったはずです。

冷たくなったのではなく、目の前の仕事を続けるために、感情を切り離さざるを得なかったのではないでしょうか。

重症患者への「処置」命令はなぜ出されたのか

フィリピンからの撤退では、動けない重症患者を敵側に残すのかという問題が生じました。

当時の日本軍には、「生きて捕虜になることは許されない」という考えが強くありました。捕虜になることを避けるため、自決や徹底抗戦が求められ、重症患者もその考えから除外されませんでした。

その結果、看護婦が患者の命を奪う行為を命じられたという証言が残されています。

ここで注意したいのは、命令に関わった看護婦だけを責めても、なぜそのような事態が起きたのかは見えてこないことです。

看護婦たちは武装した軍隊の内部におり、自身も逃げなければ死ぬ状況でした。命令を拒否すれば、自分や周囲の人がどうなるかわからない恐怖もあります。

もちろん、患者の命を奪う行為が正当化されるわけではありません。

しかし、個人の性格や道徳心だけに原因を求めると、捕虜を否定した軍の方針や、患者を安全に移送できない作戦上の失敗が見えなくなります。

個人的には、この点がいちばん大事だと感じます。問うべきなのは「なぜ看護婦は拒否しなかったのか」だけではなく、なぜ看護婦にそのような命令が届く状況を作ったのかということです。

従軍看護婦は何人亡くなったのか

日本赤十字社の救護員は、国内の軍病院だけでなく、中国大陸、東南アジア、南太平洋の島々など、広い地域へ派遣されました。

1937年の日中戦争開始から1945年の終戦までに派遣された赤十字救護員については、3万3156人以上とする記録があります。これは看護婦だけでなく、医師や薬剤師などを含む救護員の人数です。

一方で、従軍看護婦の人数については、対象とする期間や所属、国内勤務を含めるかによって数字が異なります。

また、戦地で亡くなった看護婦の正確な人数も、すべてが確認されているわけではありません。

撤退中に行方不明になった人、病気や空襲で亡くなった人、部隊の記録自体が失われた例もあるためです。

人数を見るときは、数字だけを比較するのではなく、どの期間・組織・地域を数えた数字なのかを確認する必要があります。

戦争が終わっても苦しみは終わらなかった

生きて帰国した看護婦たちも、すぐに以前の生活へ戻れたわけではありません。

戦地で多くの死を見続けたことで、人が亡くなっても何も感じられなくなったと語る人がいました。

救えなかった患者への罪悪感、自分だけが生き残ったことへの後ろめたさ、命令に従った記憶などを、長い間語れなかった人もいます。

現在なら、強い恐怖を経験した後に起きる不眠、悪夢、感情の麻痺、突然の記憶のよみがえりなどは、トラウマ反応として理解されます。

ただし、当時は心の傷に対する社会的な理解が十分ではありませんでした。

本人も周囲も「戦争中なのだから仕方がない」「弱音を吐いてはいけない」と考え、苦しみを隠した可能性があります。

戦争体験は、帰国した瞬間に過去になるわけではありません。むしろ安全な場所へ戻ってから、押し込めていた記憶や感情に苦しむこともあります。

国府台陸軍病院と戦争神経症

千葉県市川市にあった国府台陸軍病院では、1938年から、戦争神経症を含む精神疾患を抱えた軍人の治療や研究が行われました。

戦争神経症とは、戦闘や軍隊生活の強いストレスによって、震え、まひ、失語、不眠、強い不安などが現れる状態を指した当時の言葉です。

終戦時には診療記録の処分が命じられましたが、一部の記録が密かに保管され、後の研究につながりました。

残された資料からは、戦場で心を壊した人が存在したにもかかわらず、その苦しみが本人の弱さや逃避として扱われやすかったことがわかっています。

兵士だけでなく、戦地で看護に当たった女性たちも精神的な影響を受けました。

ただし、現在の診断名を過去のすべての人にそのまま当てはめることはできません。証言に表れた不眠や感情の麻痺などを見ながら、現代のPTSDと重なる部分があると慎重に考える必要があります。

従軍看護婦と従軍慰安婦は別の存在

名称が似ているため混同されることがありますが、従軍看護婦と、日本軍の「慰安婦」とされた女性たちは別の存在です。

従軍看護婦は、傷病者の治療や看護を担当した医療従事者です。

一方、「慰安婦」とされた女性たちは、軍の関与する慰安所などで兵士の性の相手をさせられた人たちを指します。

役割や置かれた制度は異なります。ただし、どちらも戦争と軍事組織のなかで女性の身体や人生が大きく左右されたという点では、当時の女性が置かれた状況を考える重要な記録です。

従軍看護婦について調べるときは、似た名称だけで同じ存在だと判断しないよう注意が必要です。

証言を読むときに確認したいこと

従軍看護婦の体験を調べる際は、1つの証言だけですべてを判断しないことが大切です。

派遣された時期や場所によって、経験は大きく異なります。

国内の軍病院、病院船、中国大陸、ビルマ、フィリピンでは、戦況も仕事内容も違いました。戦争初期と末期でも、医薬品や食料の状況は同じではありません。

確認したいのは、主に次の点です。

  • いつ、どこへ派遣された人の証言か
  • 日本赤十字社、軍病院など、どの組織に所属していたか
  • 本人の回想なのか、当時の業務報告書なのか
  • 戦後何年たってから語られた証言なのか
  • 現地住民や兵士側の記録と一致する部分があるか

証言は、数字だけでは見えない恐怖や葛藤を伝えてくれます。

一方、年月がたってから語られた記憶には、思い違いや語れなかった部分が含まれる可能性もあります。証言と公的記録を組み合わせることで、より立体的に理解できます。

従軍看護婦の記録が今も重要な理由

従軍看護婦の証言から見えてくるのは、戦場で働いた女性の苦労だけではありません。

補給を軽視した作戦が、兵士だけでなく医療者や現地住民まで追い詰めたこと。命令を最優先する組織が、医療者に患者の命を選ばせたこと。そして戦争が終わっても、記憶や罪悪感が長く残り続けたことです。

看護婦たちを「献身的な女性」として美化するだけでも、「命令に従った加害者」として切り捨てるだけでも、戦場の現実は理解できません。

そこには、患者を救おうとした意思と、軍の一員として行動させられた責任、本人も生き延びようとした切実さが重なっています。

戦争について考えるとき、つい前線で戦った兵士だけに目が向きます。しかし実際には、看護婦、医師、住民、家族など、多くの人が戦争に巻き込まれました。

従軍看護婦の記録が伝えているのは、戦争では医療さえも人を救う仕組みとして働かなくなり得るという事実です。

そして、始まった戦争を止めることが難しいからこそ、何が起きるのかを事前に知り、忘れないことが必要なのだと思います。

参考リンク


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