左脚切断を越えて再び世界の頂点へ
バドミントンの実業団選手から車いす生活、競技転向、左脚切断を経て、再びラケットを握った河合紫乃さん。その歩みは「復活」という一言では収まりません。『ザ!世界仰天ニュース …日本人に最大1400万人!気づかない骨の異常で女子が脚切断の恐怖(2026年8月11日放送)』では、股関節の異常から人生が大きく変わり、それでも競技へ戻った河合さんの軌跡が紹介されました。現在はパラバドミントンの世界トップ選手として、さらに大きな目標へ進んでいます。
この記事でわかること
- 河合紫乃さんの経歴と現在
- 左脚を切断するまでに何があったのか
- 車いすフェンシングからバドミントンへ戻った経緯
- 世界一の先に目指している2028年の舞台
梅雨にひざ痛・股関節痛がつらい原因は?階段・立ち上がり・靴下でわかる関節痛と1分ほぐし【健康カプセル!ゲンキの時間で紹介】
河合紫乃は左脚切断から世界一になったパラバドミントン選手
河合紫乃さんは、富山県出身のパラアスリートです。1992年生まれで、小学生のころからバドミントンを続け、富山商業高校、法政大学を経て、卒業後は北國銀行のバドミントンチームに所属しました。
法政大学ではインカレ団体優勝を経験し、社会人では国内トップレベルのリーグであるS/Jリーグでプレーしています。つまり、障がいを負ってから初めて本格的にバドミントンを始めた選手ではありません。
もともと全国トップクラスで戦っていたバドミントン選手だったことが、河合さんを知るうえで大きなポイントです。
その後、股関節の手術を重ねたことで左脚に後遺症が残り、車いす生活となりました。バドミントンから離れたあとには車いすフェンシングに挑戦し、日本代表として活動。そして2024年6月に左大腿を切断しました。
ところが、その年に約9年ぶりとなるバドミントン競技への復帰を果たし、2024年の日本障がい者バドミントン選手権では女子シングルスSL3で優勝しています。
さらに2026年には、BWFパラバドミントン世界選手権で優勝。出身地の富山県から特別表彰を受けるまでになりました。
一度トップ競技から離れただけでも元のレベルへ戻るのは難しいものです。それを大きな身体の変化を経験したあとに成し遂げているところに、河合さんのすごさがあります。
小学2年生からバドミントンに打ち込んだ河合紫乃
河合さんの競技人生は、小学2年生から始まりました。
富山商業高校では全日本ジュニア5位に入り、法政大学へ進学。大学時代には団体で学生日本一を経験しています。法政大学によると、2014年にキャリアデザイン学部を卒業し、その後、北國銀行のバドミントンチームへ入りました。
大学卒業後も競技を終えるのではなく、実業団選手としてさらに上を目指していたわけです。
この経歴を見ると、のちにパラバドミントンへ戻ったことも単純な「新競技への挑戦」とは少し違って見えてきます。
河合さんにとってバドミントンは、長い間人生の中心にあった競技でした。
だからこそ、それを一度失った苦しさと、再びラケットを握れた意味はかなり大きかったのではないでしょうか。個人的には、現在の成績だけを見るより、まずこの競技歴を知っておくと復活の重みがずっと伝わりやすいと感じます。
股関節の手術を繰り返し車いす生活となった
河合さんの競技人生を大きく変えたのが、股関節の問題でした。
大学時代から股関節に痛みを抱え、社会人になってからも治療が続きます。その後、手術を繰り返し、1年4か月に及ぶ入院生活を経験。後遺症が残り、車いすを使う生活になりました。
法政大学も、手術の後遺症によって左脚が麻痺し、車いす生活になったと紹介しています。
ここで気をつけたいのが、「股関節に異常がある人は河合さんと同じ経過をたどる」と考えないことです。
股関節の形成不全にはさまざまな程度があり、症状や治療方法も人によって異なります。河合さんの場合には、複数回の手術とその後の後遺症など、非常に個別性の高い経過が重なっています。
番組では「日本人に最大1400万人」と大きな数字も紹介されましたが、この数字だけを見て過度に不安になる必要はありません。
一般的な寛骨臼形成不全と、河合さんが経験した左脚切断までの経過は分けて考える必要があります。
寛骨臼形成不全は股関節の受け皿が浅い状態
番組で取り上げられた「寛骨臼形成不全」は、股関節の仕組みを知ると理解しやすくなります。
股関節は、太ももの骨の先端にある丸い「大腿骨頭」と、それを受け止める骨盤側の「寛骨臼」が組み合わさった関節です。
寛骨臼形成不全では、この骨盤側の受け皿が浅く、大腿骨頭を覆う範囲が十分ではありません。
そのため体重を支える部分が狭くなり、一部に負担が集中しやすくなります。日本では男性より女性に多いとされ、将来的な変形性股関節症につながる要因のひとつとして知られています。
ただし、寛骨臼形成不全があるから必ず強い症状が出るわけでも、手術が必要になるわけでもありません。
痛みの強さ、骨の形、年齢、日常生活への影響などを総合的に見て治療が判断されます。
股関節の痛みが続いている人にとっては、「自分も同じ病気では」と不安になるところですが、自己判断するより整形外科で状態を確認することが大切です。
河合紫乃は4度の手術を経験した
河合さんのケースが特に過酷だったのは、一度の治療ですべてが解決したわけではなかったことです。
所属先の紹介では、股関節の治療後、入退院と手術を繰り返し、1年4か月入院したことが明かされています。
番組では、その間に4度の手術を受けた経緯も紹介されました。
トップアスリートとして競技復帰を目指していたところから、歩くことさえ難しくなり、最終的には車いす生活へと変わっていきます。
しかも失ったのは競技だけではありません。
生活そのものが変わり、将来思い描いていた姿までいったん失うことになります。
華やかな「世界一」という結果だけを見ると、そこまでの時間を短く感じてしまいますが、実際には何年にもわたる過程があります。この時間の長さは、河合さんの人生を理解するときに見落としたくない部分です。
バドミントンを離れ車いすフェンシングで日本代表になった
競技を離れた河合さんが再びスポーツの世界へ戻るきっかけになったのが、車いすフェンシングでした。
2018年に競技を始め、その後、日本代表まで上り詰めます。法政大学も2018年の車いすフェンシングへの転向を紹介しています。
車いすフェンシングは、競技用車いすを床の装置に固定して行います。
相手との距離が一定になるため、剣を扱う技術だけでなく、上半身の瞬発力や反応速度、駆け引きが非常に重要になります。
バドミントンとは全く違うように見える競技ですが、相手の動きを読み、一瞬で反応する能力には共通する部分があります。
長年バドミントンで磨いた運動能力や勝負勘が、新しい競技でも生かされたと考えると、その転向にも納得できます。
所属先によると、河合さんは車いすフェンシング日本代表として6年間活動しました。
一度競技者としての道が閉ざされたあと、別のスポーツで再び日本代表になる。この時点ですでに十分すごい経歴です。
2024年6月に左大腿切断を決断
河合さんには、その後さらに大きな決断が待っていました。
所属するセイリン株式会社のプロフィールでは、第2腰髄による血流障害壊死のため、2024年6月に左大腿を切断したとされています。これを機に車いすフェンシング選手を引退しました。
ここも非常に重要な部分です。
河合さんの左脚切断を、単純に「寛骨臼形成不全が悪化したため」とまとめるのは正確ではありません。
本人の経過には手術後の麻痺や合併症など複数の要素があります。河合さんのケースを一般的な股関節形成不全の経過として受け取らないよう注意が必要です。
一方で河合さん自身にとっては、切断が「スポーツ人生の終わり」にはなりませんでした。
むしろ、その後に驚くほど大きな転機が訪れます。
左脚切断後に9年ぶりのバドミントン復帰
左脚切断後、河合さんは義足を使用するようになります。
そして選んだのが、かつて人生の中心だったバドミントンへの復帰でした。
所属先によると、約9年ぶりにバドミントン選手として復帰。2024年の日本選手権で優勝しています。
復帰したのは、パラバドミントンの「SL3」というクラスです。
パラバドミントンには、障がいの種類や程度に応じて複数のクラスがあります。SL3は下肢に障がいがあり、立位でプレーする選手のクラスのひとつです。
かつてコートを縦横に走っていた選手が、身体の条件が大きく変わった状態で同じ競技へ戻ることになります。
ここは初めて知ると少し驚きます。
「以前できた動き」と比較してしまう競技へ戻るのは、身体だけでなく精神的にも簡単ではなかったはずです。
それでも河合さんは、過去の自分をそのまま取り戻そうとするのではなく、現在の身体で戦える方法を作り直していきました。
2026年の世界選手権で世界一に
復帰からの勢いは非常に速いものでした。
2024年の日本選手権で優勝すると、国際大会でも結果を残し、2026年には大きな節目を迎えます。
BWFパラバドミントン世界選手権大会で優勝したのです。
富山県は2026年4月、この世界選手権優勝を受けて河合さんを特別表彰しています。
つまり河合さんは、
バドミントン実業団選手
↓
車いす生活
↓
車いすフェンシング日本代表
↓
左大腿切断
↓
バドミントン復帰
↓
日本選手権優勝
↓
世界選手権優勝
という、非常に珍しい競技人生を歩んできたことになります。
「不屈のアスリート」という表現だけでは少し足りないほど、大きく競技人生の形を変えながらトップへ戻ってきた選手です。
強さの背景には元S/Jリーガーとしての技術がある
河合さんの急速な活躍には、長年積み重ねてきたバドミントン経験も見逃せません。
パラバドミントンへの復帰時点で、基本的なラケットワーク、シャトルへの反応、試合の組み立て、相手との駆け引きなどをゼロから身につける必要はありませんでした。
大学インカレ団体優勝を経験し、実業団のS/Jリーグまで進んだ選手です。
もちろん、身体の条件が変われば以前と同じプレーはできません。
そこで必要になるのが、「過去の技術を現在の身体にどう組み直すか」です。
パラスポーツを見るとき、障がいだけに目が向きがちですが、実際には選手一人ひとりの競技歴や技術的背景まで知ると試合の見え方が変わります。
個人的には、河合さんの場合はここがいちばん面白いところだと感じます。単に努力で戻ってきたのではなく、長年培ってきた高度な技術を、新しい身体条件に合わせて再構築しているからです。
2028年ロサンゼルスパラリンピックを目指す
世界選手権優勝で物語が終わったわけではありません。
河合さんが現在見据えているのは、2028年ロサンゼルスパラリンピックです。
所属先も、ロサンゼルス大会に向けて挑戦を続けていることを明らかにしています。
世界選手権で優勝したことで、すでに世界トップクラスの実力を証明しています。
ただし、パラリンピック出場には大会ごとの成績やランキング、選考条件などが関わるため、「世界選手権で優勝した=自動的にロサンゼルス大会出場決定」というわけではありません。
今後確認したいのは、国際大会での成績と世界ランキング、そして日本代表の選考状況です。
世界一になったあと、さらにパラリンピックという大舞台まで進めるのか。河合さんの競技人生は、まだ途中にあります。
河合紫乃の歩みから見える本当のすごさ
河合紫乃さんの経歴をたどると、「左脚を失っても世界一になった」という部分だけでは伝わらないものが見えてきます。
もともとは全国トップクラスのバドミントン選手でした。
その競技を手放し、車いす生活となり、別競技で再び日本代表へ。そして左脚切断後、今度はかつて離れたバドミントンへ戻り、世界選手権を制しました。
何度もゼロから始め直したように見えますが、実際には、それまで積み上げてきた経験が次の挑戦につながっています。
バドミントンで培ったものがフェンシングへ、フェンシングで取り戻した競技者としての感覚が再びバドミントンへつながったとも見ることができます。
個人的には「諦めなかった」という言葉だけで終わらせない方が、河合さんの歩みは理解しやすいと思います。
状況が変わるたびに、今の自分にできる競技や方法を選び直してきたこと。そこに河合紫乃さんの強さが表れています。
そして次の目標は2028年のロサンゼルスです。
かつてバドミントンを続けられなくなった選手が、今度はパラリンピックの頂点を目指して同じラケットを握っている。その続きは、これから作られていきます。
出典ソース
気になる生活ナビをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。


コメント