鑑真が東大寺で過ごした5年間から唐招提寺創建までをたどる
2026年9月19日放送の「ブラタモリ 奈良・東大寺SP」では、東大寺だけでなく唐招提寺も訪ね、両寺の深いつながりに迫ります。その中心にいるのが、唐から日本へ戒律を伝えた高僧・鑑真です。
鑑真は来日後、まず東大寺を拠点として約5年間を過ごし、天皇をはじめ多くの人に戒を授けました。その後759年、新田部親王の旧宅地を与えられ、戒律を学ぶ人々のための道場を開きます。これが現在の唐招提寺の始まりです。東大寺の戒壇院と唐招提寺は、鑑真の活動を前半と後半に分けて見ると、そのつながりがよく分かります。
この記事でわかること
- 鑑真が東大寺から唐招提寺へ移った経緯
- 東大寺で過ごした5年間に何をしたのか
- 戒壇院がなぜ日本仏教で重要な場所なのか
- 唐招提寺がどのように始まったのか
鑑真が東大寺から唐招提寺へ移ったのは戒律を学ぶ道場を開くため
結論からいうと、鑑真は東大寺との対立などによって去ったのではありません。
唐招提寺公式によると、鑑真は東大寺で5年間を過ごした後、新田部親王の旧宅地を下賜され、759年に戒律を学ぶ人々のための修行道場を開きました。 この道場が「唐律招提」と呼ばれ、現在の唐招提寺へ発展しています。
つまり鑑真の歩みは、
唐から日本へ戒律を伝える
↓
東大寺で正式な授戒制度を根付かせる
↓
自ら戒律を学び実践する拠点を開く
という流れでつながっています。
東大寺から唐招提寺への移動は、「東大寺を離れて別の寺へ移籍した」と見るより、東大寺で築いた戒律の基盤を、専門的に学ぶ新たな場所へ発展させたと考えると分かりやすいでしょう。
鑑真は日本での10年間を東大寺5年・唐招提寺5年で過ごした
鑑真は688年、唐の揚州に生まれました。
14歳で出家し、洛陽や長安で修行。やがて戒律の専門家として高く評価されるようになります。
742年、日本から唐へ渡っていた僧の栄叡と普照から、日本へ「伝戒の師」として来てほしいと要請されました。
ところが日本への航海は簡単ではありません。
鑑真はその後12年間に5度渡航を試みましたが、いずれも失敗。視力も次第に失っていきました。それでも渡日を断念せず、753年、6回目の航海でようやく日本へ到着します。
そして日本で過ごした約10年間のうち、
- 前半の5年間を東大寺
- 後半の5年間を唐招提寺
で過ごしました。76歳で亡くなるまで、天皇をはじめ多くの人々へ戒を授けています。
この「5年+5年」という歩みを知ると、東大寺と唐招提寺が番組で一緒に取り上げられる理由も見えてきます。
東大寺で鑑真が担った大仕事が「正式な授戒」だった
では、なぜ日本はわざわざ唐から鑑真を招いたのでしょうか。
重要になるのが戒律です。
戒律とは、仏教の僧侶たちが守るべき決まりや、修行生活の規範です。そして正式な僧侶になるためには、すでに戒を受けた僧侶たちから定められた作法によって戒を授かる「受戒」が重要でした。
東大寺は2026年の展示解説で、鑑真が日本にもたらしたものとして、律学だけでなく「如法受戒の作法」を挙げています。
鑑真は、単に中国の仏教知識を紹介した人物ではありません。
日本の僧侶が正式な手続きを経て戒を受け、その戒律を学び、次の世代へ伝えていくための仕組みそのものを根付かせた人物だったのです。
聖武太上天皇らが大仏殿前で鑑真から戒を受けた
鑑真が日本へ渡った翌年の754年、東大寺で大きな出来事が起こります。
東大寺大仏殿の前に戒壇が設けられ、鑑真によって授戒が行われました。
ここで戒を受けた人物には、
聖武太上天皇、光明太上皇后、孝謙天皇
という、当時の日本を代表する人々が含まれていました。
大仏造立を進めた聖武天皇が、完成した大仏の前で鑑真から戒を受けたことになります。
鑑真の来日は、外国から有名な僧侶がやって来たというだけの出来事ではありません。日本の国家と仏教の中心に直接関わる出来事だったことが、この顔ぶれからも分かります。
大仏殿前の戒壇が移されて「戒壇院」が生まれた
現在の東大寺には、大仏殿の西側に戒壇院戒壇堂があります。
その始まりは、鑑真が授戒を行った大仏殿前の土壇です。
東大寺によると、聖武太上天皇らが受戒した大仏殿前の土壇を現在の場所へ移し、戒壇堂を築いて伽藍を整備したことが戒壇院の起こりでした。
その後、ここから多くの僧侶が巣立っていきます。
さらに東大寺は、754年に鑑真が伝えた厳格な授戒の儀式を受け、日本で初めて常設の戒壇が東大寺につくられたと説明しています。
戒壇院は、単なる東大寺の一堂ではありません。
鑑真によって持ち込まれた正式な授戒制度が日本で形となった場所であり、その後の僧侶育成にも大きな役割を果たした場所なのです。
現在の戒壇堂には国宝の四天王像が立つ
現在の戒壇院戒壇堂で特に知られているのが、壇上の四隅に立つ四天王像です。
持国天、増長天、広目天、多聞天の4体で、いずれも奈良時代の国宝。東大寺は、天平時代の彫刻を代表する作品として紹介しています。
ただし、現在の戒壇院が鑑真の時代から建物ごとそのまま残っているわけではありません。
戒壇院は1180年の兵火で全焼。その後再建されましたが、1446年にも焼失しました。
現在残る戒壇堂などは江戸時代に再建されたものです。
建物自体は時代を越えて再建されていますが、「ここで戒を授け、僧侶を育てる」という場所の意味は受け継がれてきました。
759年に開いた「唐律招提」が唐招提寺の始まり
東大寺で約5年間活動した鑑真は、759年に大きな転機を迎えます。
与えられたのは、天武天皇の皇子・新田部親王の旧宅地でした。
鑑真はこの場所に戒律を学ぶための道場を開きます。
その名が唐律招提。
「招提」は、修行する僧侶たちが集まる場所を意味する言葉として使われています。
唐招提寺公式によれば、創建当初から現在のような壮大な伽藍が完成していたわけではありません。
当初あったのは講堂のほか、新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵など。現在の象徴でもある金堂は、鑑真の弟子・如宝らの尽力によって8世紀後半に完成したとされています。
奈良市も唐招提寺について、鑑真が759年に戒律を学ぶための寺院として創建したと紹介しています。
唐招提寺は現在も「律宗の総本山」
鑑真が始めた戒律の道場は、その後途絶えたわけではありません。
現在の唐招提寺は律宗の総本山です。
東大寺で鑑真が伝えた律学と正式な受戒の仕組みは、唐招提寺へとつながり、現在までその歴史が受け継がれています。
東大寺と唐招提寺を別々の観光地として見ると、この関係はなかなか見えてきません。
しかし、
東大寺=鑑真が日本で授戒制度を確立していった場所
唐招提寺=鑑真が戒律を学び実践する独自の拠点を築いた場所
と考えると、2つの寺は鑑真の日本での活動によって一本につながります。
鑑真和上坐像は普段いつでも見られるわけではない
唐招提寺で鑑真を象徴する文化財が、国宝の鑑真和上坐像です。
ただし、いつでも自由に拝観できるわけではありません。
唐招提寺では鑑真の命日に合わせ、例年6月上旬の開山忌に御影堂が特別公開され、鑑真和上坐像を拝観できる機会が設けられています。
2026年の公開は6月5日から7日に行われ、すでに終了しています。今後の公開日は年によって変更される場合があるため、参拝前に公式のお知らせを確認するのが確実です。
東大寺戒壇堂と唐招提寺の拝観情報
番組をきっかけに実際に訪れるなら、東大寺では大仏殿だけでなく戒壇院戒壇堂まで足を延ばすと、鑑真とのつながりが分かりやすくなります。
東大寺 戒壇院戒壇堂
- 所在地:奈良市雑司町406-1
- 拝観時間:8:30~16:00
- 個人入堂料:大人・高校生・中学生800円、小学生400円
- 堂内での撮影・スケッチ・懐中電灯の使用は禁止
唐招提寺
- 所在地:奈良市五条町13-46
- 拝観時間:8:30~17:00、受付16:30まで
- 拝観料:大人・大学生1,000円、高校生400円、中学生400円、小学生200円
- 最寄り駅:近鉄西ノ京駅
料金や公開内容は変更されることがあるため、訪問時は最新の公式情報を確認してください。
まとめ
鑑真が東大寺から唐招提寺へ移った流れは、「有名な僧侶が別の寺へ移った」という単純な話ではありません。
753年に日本へ渡った鑑真は、東大寺を拠点として約5年間活動しました。
754年には大仏殿前で聖武太上天皇らに戒を授け、その戒壇をもとに戒壇院が整えられます。ここから多くの僧侶が育っていきました。
そして759年、新田部親王の旧宅地を与えられた鑑真は、戒律を学ぶための道場「唐律招提」を開きます。それが唐招提寺の始まりでした。
東大寺で日本の授戒制度を形にし、唐招提寺で戒律を専門的に学ぶ場へ発展させる。
この流れを知ってから「ブラタモリ」で東大寺と唐招提寺を見ると、番組予告にある「深いつながり」が単なる寺同士の交流ではなく、鑑真という1人の僧侶の日本での10年間そのものだったことが見えてきます。
参考リンク
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