経営危機から「子どもの笑顔」を追いかける経営へ
2026年9月11日のテレビ朝日「気づきの扉」で紹介される「日本一のだがし売場」。その巨大な店を生み出した中心人物が、株式会社大町の秋山秀行さんです。現在は代表取締役会長を務めています。
今では年間100万人規模が訪れる人気スポットですが、最初から巨大店舗を計画していたわけではありません。
会社の経営が厳しくなり、倉庫の一角で始めた小さな直売店。そこへ遊びに来る子どもたちとの会話をきっかけに商品が増え、「子どもを喜ばせる」という方向へ会社そのものが変わっていきました。
秋山さんの経歴を追うと、「気づきの扉」という番組タイトルにつながる転機が見えてきます。
この記事でわかること
- 秋山秀行さんの出身・大学・会社員時代
- 菓子卸会社の後継者になった経緯
- 日本一のだがし売場が誕生した意外なきっかけ
- だがしの日や世界へ広げる活動
秋山秀行さんは1958年岡山県生まれの菓子卸3代目

出典:社長名鑑
秋山秀行さんは1958年岡山県生まれ。同志社大学文学部を1981年に卒業し、百貨店の大丸に入社しました。
約4年間勤務した後、1985年に家業である株式会社大町へ入社しています。
大町の菓子卸業は1952年に設立されていますが、そのルーツはさらに古く、1897年に岡山市西大寺で創業した「小町本店」までさかのぼります。
秋山さんにとって菓子は、突然飛び込んだ新しい業界ではありません。
幼い頃から菓子に囲まれて育ち、その後、家業を引き継ぐ立場になった人物です。
1999年には大町の代表取締役社長に就任しました。2025年11月に秋山創一朗さんが代表取締役社長となり、秀行さんは現在、代表取締役会長を務めています。
会社は順風満帆ではなく新規事業の失敗も経験した
現在の巨大なだがし売場を見ると、最初から成功した会社のように感じます。
しかし、秋山さん自身の説明では、経営状況が悪化した時期があり、立て直しを狙ってさまざまな新規事業にも挑戦したものの、思うような結果が出なかったとされています。
会社公式の対談でも、現在に至るまでには多くの紆余曲折があり、「自然にできあがった」と振り返っています。
つまり、日本一のだがし売場は「巨大駄菓子店を作れば観光客が来る」という緻密な事業計画から始まったわけではありません。
むしろ失敗を経験した後、別の方向へ進んだことから生まれています。
2011年の「もったいない広場」がすべての始まり
大きな転機になったのが2011年です。
大町では、それまで年2回開いていた「お菓子祭り」を常設化し、倉庫の一角に「もったいない広場」を開設しました。
メーカーや問屋の処分品などを販売する直売店です。
しかし、平日の来店客は少なく、現在のような人気店とはほど遠い状態でした。
そんな売場へ近所の子どもたちがやって来るようになります。
ここから、店の方向が変わり始めました。
「うまい棒が2種類しかない」という子どもの一言が売場を変えた
現在の店につながる象徴的なエピソードが、子どもとの会話です。
秋山さんによると、近所の子どもから「ここにはうまい棒が2種類しかない」「コンビニには3種類ある」という趣旨のことを言われました。
そこで秋山さんは約2週間かけ、当時扱える16種類をそろえたと振り返っています。
子どもたちは大喜び。
その後も「あれが欲しい」「これが欲しい」という声を聞いては商品を取り寄せることを繰り返しました。
結果として品ぞろえがどんどん増えていきました。
この経緯が面白いのは、市場調査で売れ筋商品を増やしたのではなく、目の前の子どもの声に反応した結果として巨大店になったことです。
「お客の声を聞く」という言葉は商売でよく使われますが、ここでは本当に子どもとの日常的な会話が店を作っていきました。
東日本大震災で商品がなくなり駄菓子を仕入れたことも転機に
もう1つ大きかったのが2011年の東日本大震災です。
大町公式の対談によると、震災後、メーカーや問屋から届くはずだった菓子が支援物資として被災地へ回り、直売店で販売する商品が不足しました。
そこで秋山さんは、両親が関わっていた菓子問屋から昔ながらの駄菓子を仕入れます。
これが現在の「日本一のだがし売場」へつながる本格的な駄菓子販売の始まりになりました。
偶然ともいえる出来事と、子どもたちとの交流。
その2つが重なったところから現在の店が形づくられています。
2015年に「日本一のだがし売場」へ改称
2015年4月、「もったいない広場」は現在の「日本一のだがし売場」へ名称を変更しました。
2019年には店舗を拡張し、店舗面積は2479平方メートルになっています。
最初は倉庫の一角だった売場が、巨大な観光スポットへ成長したことになります。
それでも経営の基本には、秋山さんが繰り返してきた「子どもを喜ばせる」という考え方があります。
商品を低い位置に置く、値段を分かりやすくする、子どもが自分で予算を計算できるようにする。
効率だけを考えれば手間のかかる作業ですが、大町では「感動を生み出す非効率の追及」という考え方まで掲げています。
フランスの子どもたちを見て「だがしは世界に通じる」と気づいた
秋山さんの活動は岡山だけにとどまりません。
2014年、フランスのパリとナントで日本文化を紹介するイベントに参加しました。
そこで駄菓子を使ったゲームを行うと、現地の子どもたちが夢中になります。
秋山さんは、その姿を見て日本の駄菓子が海外の子どもにも通じることを実感したと財務省の広報誌で振り返っています。
帰国後、駄菓子メーカーなどへ働きかけ、駄菓子文化を広げる活動を本格化させました。
3月12日の「だがしの日」を広げている
秋山さんは「DAGASHIで世界を笑顔にする会」の代表理事も務めています。
活動の象徴になっているのが3月12日の「だがしの日」です。
菓子の神様として知られる田道間守にちなみ、3月12日をだがしの日として全国へ広げてきました。
2026年までに活動は全国各地だけでなく、海外にも広がっています。
秋山さんにとって駄菓子は、単なる低価格のお菓子ではなく、人と人が向き合い、子どもが笑い、大人も一緒に時間を過ごすための道具になっています。
「元氣村」構想で店から町へ活動を広げる
現在、大町が掲げているのが「元氣村」構想です。
菓子だけでなく、農業、教育、健康、スポーツなどを組み合わせ、地域全体を子どもたちの笑顔が集まる場所にしていこうという構想です。
現在の社長である秋山創一朗さんも、この考えを引き継いでいます。
日本一のだがし売場は完成形ではなく、その周囲へさらに活動を広げるための中心施設という位置付けになりつつあります。
実用情報
秋山秀行さんの活動を実際に知りたい場合、中心になる場所は岡山県瀬戸内市の「日本一のだがし売場」です。
また「DAGASHIで世界を笑顔にする会」では、3月12日のだがしの日を中心に各地でイベントを展開しています。
日本一のだがし売場でもイベント時には、秋山さんが「だがしおじさん」としてチンドン屋風の姿で登場し、紙芝居などで子どもを楽しませる活動を続けています。
まとめ
秋山秀行さんの経歴をたどると、「日本一のだがし売場」は最初から計画された巨大店舗ではなかったことが分かります。
経営が厳しい時期を経験し、倉庫の一角で始めた「もったいない広場」。
そこへ遊びに来た子どもの「うまい棒が少ない」という一言を受け、本気で品ぞろえを増やしたことから店が変わりました。
さらに東日本大震災、フランスで見た子どもたちの反応など、いくつもの出来事をきっかけに、駄菓子を通じて子どもを笑顔にする活動へ進んでいます。
「気づきの扉」で描かれるテーマとともに知っておきたいのは、成功した巨大店舗そのものよりも、目の前の子どもの反応を大切にし続けた結果として、現在の店が生まれたという背景です。
参考リンク
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