十勝の豆成金とは 第一次世界大戦の好景気と暴落を乗り越えた農業王国の歴史
2026年10月17日放送のNHK『ブラタモリ』では、北海道十勝地方を舞台に、豆の栽培がもたらした繁栄と苦難、そして日本有数の農業地帯が誕生した歴史を紹介します。
十勝では、1914年に始まった第一次世界大戦によってインゲン豆やエンドウの輸出が急増し、豆の価格が高騰しました。この好景気で大きな財産を築いた農家や商人は「豆成金」と呼ばれました。
しかし、戦争が終わると豆の価格は暴落。せっかくの富を失う人々も現れ、十勝の農業は深刻な不況に見舞われました。
さらに戦後の1954年には、小豆の価格が再び高騰し、1俵1万円に達した小豆は「赤いダイヤ」と呼ばれるようになります。
こうした価格変動や冷害を経験した十勝では、豆だけに依存する農業から、小麦、ジャガイモ、てん菜、豆類を組み合わせる輪作農業へと発展していきました。
今回の放送には帯広畜産大学の谷昌幸教授も出演し、十勝の農業を支える土壌について解説します。
※放送後詳しい内容が分かり次第追記します。
この記事でわかること
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第一次世界大戦で「豆成金」が誕生した理由と豆の輸出
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豆の価格暴落で十勝の農家が経験した繁栄と苦難
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小豆が「赤いダイヤ」と呼ばれた背景と大正金時の歴史
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十勝が日本有数の農業王国へ発展した土壌と4年輪作の仕組み
十勝の豆成金は第一次世界大戦の輸出景気で誕生
十勝の農業史で「豆成金」と呼ばれる人々が登場したのは、1910年代後半のことです。
きっかけとなったのは、1914年に始まった第一次世界大戦でした。
当時のヨーロッパでは戦争によって農業生産や食料供給に大きな影響が出ており、日本からも農産物が輸出されるようになります。
北海道十勝地方では、以前からインゲン豆やエンドウなどの栽培が盛んでした。
こうした豆類が海外市場へ進出すると、価格が急激に上昇します。
特に1916年から1919年ごろにかけて農産物価格が高騰し、豆の生産や取引によって大きな利益を得る人々が現れました。
この人々が「豆成金」です。
同じ時期には、ジャガイモから作られるデンプンの価格も上がり、「澱粉成金」と呼ばれる人々も登場しました。
長く厳しい開拓生活を送ってきた十勝の農家にとって、農産物が高値で売れる時代は大きな転機となりました。
1918年の豆の出荷量はインゲン豆が約20万俵
第一次世界大戦中の十勝では、特にインゲン豆の生産が拡大しました。
帯広市の市史には、1918年に帯広から積み出された豆類の数量が残されています。
1918年の主な豆類の積出量
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インゲン豆(菜豆):約20万2,500俵
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大豆:約7万5,000俵
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小豆:約6万6,000俵
それまで中心的な作物だった大豆を、インゲン豆が大きく上回っています。
インゲン豆とエンドウの価格上昇に合わせて栽培面積が増え、十勝の農業は輸出需要によって急速に拡大しました。
経済的な変化も大きなものでした。
帯広町を中心とする音更、鹿追、大正、帯広の農産物合計価格は、1914年の約119万円から1921年には約458万円へと増加しています。
農業によって生み出される金額が大きくなり、十勝の農村経済は発展していきました。
ただし、価格上昇の大きな要因は海外の戦争による一時的な需要です。
農家の努力だけでは左右できない国際情勢が、十勝の豆の価格を動かしていたのです。
1907年の鉄道開通が豆の大量出荷を支えた
十勝で豆の生産が大きく発展した背景には、鉄道の存在もありました。
1907年、十勝と道央を結ぶ鉄道が開通します。
これによって十勝で収穫した農産物を、以前より円滑に遠くの市場へ運べるようになりました。
鉄道が整備される以前は、大量の農産物を長距離輸送すること自体が大きな課題でした。
鉄道の開通は、十勝の農業が地域内の生産から広域市場へ進出するための重要な条件となりました。
その後、第一次世界大戦によって海外向けの豆の需要が高まると、鉄道を使った大量輸送の重要性はさらに増していきます。
また、この時期には新たな入植者も増え、農地の開墾が進みました。
十勝の耕地面積の推移
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1907年:約3万8,000町歩
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1919年:10万町歩を突破
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1931年:約18万1,700町歩
町歩は昔の面積単位で、1町歩は約0.99ヘクタールです。
十勝の農地は、1907年から1931年までの約24年間で大幅に拡大しました。
鉄道による輸送の発展、移住者による開拓、豆の輸出景気が重なり、十勝は農業地帯として成長していきました。
第一次世界大戦後の価格暴落で豆成金の時代は終わった
豆の価格高騰によって繁栄した十勝ですが、その好景気は長く続きませんでした。
1918年に第一次世界大戦が終結すると、海外からの需要が変化します。
1920年には戦後恐慌が起こり、農産物の価格が大きく下落しました。
それまで高い価格で売れていた豆が値下がりし、多くの農家が経済的な打撃を受けます。
特に問題だったのは、豆の価格が高い状態を前提として農業経営を拡大していたことです。
作物の販売価格が下がっても、土地の開墾や農業経営にかかる費用が同じように減るわけではありません。
収入が急減すると、農業を続けることが難しくなります。
十勝では農産物価格の暴落によって離農する人々も現れました。
さらに、1929年に始まった世界恐慌が農業経済に追い打ちをかけます。
1930年には豊作によって農産物価格が暴落し、翌1931年には冷害による大凶作が発生しました。
作物がたくさん収穫できれば価格が下がり、天候が悪ければ収穫量そのものが減る。
十勝の農家は、相場の変動と自然災害という2つの大きな問題に苦しめられてきました。
1954年には小豆が1俵1万円の「赤いダイヤ」に
戦後、十勝の豆は再び大きな注目を集めます。
特に人気を集めたのが小豆です。
1954年には小豆の価格が高騰し、1俵1万円という水準に達しました。
高価で、価格の動きが激しいことから、小豆は「赤いダイヤ」と呼ばれるようになります。
赤いダイヤの基本情報
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対象作物:小豆
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名称が広まった時期:1950年代
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1954年の価格:1俵1万円
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背景:小豆の価格高騰と投機的な取引
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主な用途:あんこ、和菓子、赤飯など
小豆は、日本の食文化と深い関係を持つ豆です。
あんこを使った和菓子や赤飯など、祝い事や季節の行事でも使われています。
しかし、農産物としての小豆には、天候による収穫量の変動が大きいという問題がありました。
北海道では冷害によって収穫量が減る年もあり、供給量の変化が価格へ影響しました。
実際、1953年から1956年にかけては冷害や風水害が続きました。
1956年の冷害は大正時代以来の大凶作となり、北海道全体で当時の金額で396億円もの被害が発生しています。
「赤いダイヤ」という華やかな呼び名の裏側には、価格高騰で利益を得る一方、天候や相場に苦しむ農家の厳しい現実がありました。
大正金時は十勝の旧大正村で生まれた品種
現在も親しまれている十勝の豆の1つが「大正金時」です。
大正金時はインゲン豆の仲間で、赤紫色の美しい豆です。
名前の「大正」は、元号そのものではなく、かつて十勝に存在した「大正村」に由来しています。
北海道立農業試験場の記録によると、1941年、当時の大正村上似平の農家だった水野利三郎さんが、購入した金時豆の種子の中から特徴のある豆を発見しました。
その後、この豆を増やして栽培したことが、大正金時の始まりです。
1947年から1948年ごろには栽培者が増え始め、1953年ごろから十勝地方で急速に普及しました。
大正金時の特徴
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分類:インゲン豆
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誕生地:北海道十勝地方の旧大正村
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発見者:水野利三郎さん
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発見年:1941年
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外観:大粒で赤紫色
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特徴:比較的早く成熟する品種
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主な用途:甘煮、煮豆、豆料理
大正金時は、十勝の農家による品種の発見と選抜から生まれました。
輸出景気に左右されていた豆の歴史だけでなく、地域の農業技術の積み重ねを伝える品種でもあります。
十勝の農業を支えるのは火山灰からできた黒い土
十勝の農業を語るうえで欠かせないのが、広大な畑の土壌です。
今回の『ブラタモリ』には、帯広畜産大学の谷昌幸教授が案内役として出演します。
谷教授は土壌学を専門とし、農耕地の養分の動きや土壌改良、作物の生産性などについて研究しています。
十勝地方には、火山灰を母材として形成された「黒ボク土」が広く分布しています。
黒ボク土は、腐植物質を多く含んだ黒い表層が特徴です。
ただし、黒い土だから何もしなくても作物がよく育つというわけではありません。
火山灰を母材とする土壌には、植物の生育に必要なリン酸が固定されやすい性質などもあり、作物に合わせた施肥や土壌管理が求められます。
さらに十勝には、春から夏にかけての低温や、収穫期の霜など、気候による農業上の課題もあります。
広大な農地を持つだけでは、安定した収穫は実現できません。
排水設備の整備、農地の改良、土壌分析、栽培技術の研究などを重ねることで、現在の農業が支えられています。
4年輪作が豆に依存しない十勝の農業を支えている
かつて豆の価格高騰と暴落に苦しんだ十勝では、特定の作物だけに依存しない農業が発展していきました。
現在の十勝を代表するのが、4種類の作物を順番に栽培する輪作体系です。
十勝の主要な畑作4品目
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小麦
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豆類(小豆・大豆・インゲン豆など)
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ジャガイモ(ばれいしょ)
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てん菜(ビート)
輪作とは、同じ畑で毎年同じ作物を栽培するのではなく、異なる作物を順番に栽培する方法です。
例えば、ある年に小麦を育てた畑で、翌年には別の作物を栽培します。
これを繰り返すことで、特定の作物を連作した場合に起こる病気や害虫の増加を抑え、土壌の状態を維持する効果が期待できます。
また、作物ごとに根の張り方や必要とする養分が異なります。
マメ科の作物では根粒菌との共生による窒素固定が行われ、てん菜のように根を深く伸ばす作物は土壌の性質にも影響します。
こうした作物の特徴を生かし、農地を持続的に利用するのが輪作の考え方です。
なお、すべての農家が必ず4年周期で同じ順番に栽培しているわけではありません。地域や土壌の条件に応じて栽培品目や順番は調整されています。
過去に豆の相場へ経営を左右されてきた十勝の歴史を考えると、多様な作物を組み合わせる農業の重要性がよくわかります。
現在の十勝は日本の食卓を支える一大農業地帯
現在の十勝は、豆類だけでなく、小麦、ジャガイモ、てん菜、乳製品などの生産でも重要な地域です。
十勝農業協同組合連合会によると、2025年産農畜産物に関する管内23農協の取扱高は概算で3,846億円に達しています。
内訳では畜産部門が64.4%、耕種部門が35.6%を占めています。
小麦や豆を栽培する畑作農業に加えて、酪農や肉用牛の生産も盛んです。
また、十勝には豆の栽培と深く結びついた食品産業も発展しています。
小豆はあんこや和菓子の材料となり、大豆は豆腐、味噌、醤油、きなこなど、さまざまな食品へ加工されます。
インゲン豆も煮豆や菓子の材料として使われています。
かつて輸出用作物として十勝に富をもたらした豆は、現在では日本の食生活を支える重要な農産物の1つになっています。
十勝の農業が発展した理由は、広大な土地や気候だけではありません。
豆の価格暴落や冷害を経験しながら、農地の整備、品種の改良、栽培技術の研究を積み重ねてきた歴史があるのです。
まとめ
十勝の「豆成金」は、1914年に始まった第一次世界大戦による農産物の輸出景気から誕生しました。
インゲン豆やエンドウの価格が高騰し、短期間で大きな財産を築く人々が現れましたが、戦後の価格暴落によって農家の暮らしは一変しました。
その後も世界恐慌や冷害による凶作が続き、戦後には小豆が「赤いダイヤ」と呼ばれるほど価格が高騰した時期もありました。
こうした繁栄と苦難を経験した十勝では、農地の整備や土壌改良、品種の開発が進められ、現在の大規模な輪作農業が発展していきました。
2026年10月17日の『ブラタモリ』では、豆によって運命を左右された人々の歴史と、十勝の豊かな農業を支える大地の秘密に迫ります。
参考リンク
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