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藤堂高虎の高石垣はどう造られた|大坂城・伊賀上野城に残る築城術【日本最強の城スペシャル】

歴史

藤堂高虎の高石垣は「高さ」だけでなく堀と縄張りまで一体で造られた

2026年9月21日放送のNHK総合「日本最強の城スペシャル あなたも絶対行きたくなる! 豊臣軍団の城」では、豊臣秀長・秀吉に仕え、のちに徳川家康からも重用された築城の名手・藤堂高虎が取り上げられます。

高虎の城造りを象徴するのが、巨大な高石垣です。伊賀上野城には約30m、大阪城では本丸東面に水堀部分を含め約32mもの石垣が残ります。しかし、高虎の築城術は単純に石垣を高くしただけではありません。石を加工して精度高く積み、広い堀と組み合わせ、敵を城の中心部へ近づけにくくする城全体の設計に特徴がありました。

この記事でわかること

  • 藤堂高虎の高石垣がどのように造られたのか
  • 伊賀上野城に残る約30mの高石垣の特徴
  • 現在の大阪城と藤堂高虎の関係
  • 2026年9月に伊賀で開催される「高虎と上野城」の情報

藤堂高虎の高石垣は加工した石を積み上げて強度を高めた

出典:伊賀市公式「上野公園で映画『黒牢城』の撮影が行われました。」

藤堂高虎の高石垣を現在もっとも分かりやすく体感できる場所の一つが、三重県伊賀市の伊賀上野城です。

本丸西側に残る石垣は高さ約30m。伊賀市の資料では、根石から天端まで29.7mとされ、日本有数の高さを誇ります。

この石垣に使われているのが「打込接(うちこみはぎ)」と呼ばれる技法です。

打込接は、自然石をほぼそのまま積む野面積みよりも石材を加工し、石と石の接触部分や隙間を小さくしながら積み上げていく方法です。

高石垣では、上に積む石の重さを下部全体で受け止めなければなりません。

石の配置を調整しながら積み上げ、石垣内部にも石を詰め、巨大な壁全体を安定させていきます。

また石垣の角は特に崩れやすいため、近世城郭では細長い石の長辺と短辺を交互に組み合わせる「算木積み」が発達しました。

石垣そのものを高くする技術と、崩れやすい角を補強する技術。その積み重ねによって、戦国末期から江戸初期には30m級の巨大石垣を造ることが可能になっていきました。

高虎流の本当の特徴は「高石垣+広い内堀」

藤堂高虎の城造りを考えるうえで重要なのが、石垣だけを切り離して見ないことです。

津市は高虎の築城術について、「高い石垣と広い内堀」を造り、平城でも防御力の高い城を確立したと紹介しています。

つまり、石垣は城を守る巨大な壁。

その手前に幅の広い堀を配置することで、敵は簡単に石垣へ近づけません。

堀を突破できたとしても、その先には高い石垣が待っています。

津城でも、高虎は本丸を中心として内堀を設け、その幅は80~100mに及ぶ部分がありました。

山の険しさを利用する山城とは違い、平地に築く城では自然の防御力を利用しにくくなります。

そこで高虎は、人工的に巨大な高低差と距離をつくることで、平地そのものを要害へ変えていったのです。

伊賀上野城には約30mの高石垣が今も残る

高虎が伊賀・伊勢へ移ったのは1608年です。

徳川家康から伊賀国と伊勢国の一部を与えられ、津城と伊賀上野城を治めることになりました。

1611年、高虎は伊賀上野城の大改修に着手します。

それまでの城地を拡張し、本丸を内堀と高石垣で囲む強固な城へ変更しました。

現在残っている本丸西側の高石垣は約30m。

この石垣は、各地の城郭石垣を手掛けたことで知られる石工集団**穴太衆(あのうしゅう)**によって築かれたと伊賀市は紹介しています。

さらに重要なのが石垣の向きです。

巨大な高石垣は本丸の西側に造られています。

当時、西には大坂の豊臣勢力が存在しました。

関ヶ原の戦いを経ても大坂城には豊臣秀頼が健在で、徳川政権にとって大坂への備えは重要でした。

伊賀上野城は、徳川側から大坂方面を警戒する拠点として大改修された城だったのです。

5層天守は完成直前に暴風で倒壊した

高虎は伊賀上野城に石垣だけを造ったわけではありません。

本丸には5層の巨大天守の建設が進められました。

ところが1612年、伊賀を襲った大暴風によって完成目前だった天守が倒壊します。

その後、天守が再建されることはありませんでした。

現在の伊賀上野城に建つ白い3層の天守は、高虎時代のものではなく、1935年に完成した木造の復興天守です。

一方で、城の下を支える石垣と内堀には高虎の時代のものが残っています。

そのため伊賀上野城では、天守を見るだけでなく、本丸西側から内堀へ落ち込む巨大な石垣に注目すると、高虎が造った城のスケールを実感できます。

大坂城の基本設計も藤堂高虎が担当した

藤堂高虎と大坂城の関係には注意が必要です。

現在地上に見えている大阪城の石垣は、豊臣秀吉が築いた大坂城の石垣そのものではありません。

豊臣大坂城は1615年の大坂夏の陣で落城。

徳川幕府はその後、旧城を覆うような形で新しい大坂城を造り直しました。

徳川大坂城の再築工事が始まったのは1620年です。

このとき将軍・徳川秀忠から城全体の基本設計である「縄張」を任されたのが藤堂高虎でした。

大阪城天守閣に残る史料には、高虎が大坂城再築に伴う石垣工事にも関与していたことが確認できます。

ただし、現在の大阪城にある巨大な石垣を高虎1人、あるいは藤堂家だけで築いたわけではありません。

徳川幕府は西国を中心とする多数の大名に工事区域を割り当てる「天下普請」で大坂城を築きました。

各大名が石材を調達し、それぞれ割り当てられた「丁場」で石垣工事を担当しています。

高虎はその巨大プロジェクトの基本設計を担い、藤堂家自身も一部の石垣工事を受け持っていました。

大阪城には約32mの日本屈指の高石垣が完成した

現在の大阪城で特に巨大なのが、本丸東側の石垣です。

水堀部分を含めた高さは約32m。

大阪城天守閣は、この本丸東面石垣を日本一の高さを誇る石垣として紹介しています。

興味深いのは伊賀上野城との位置関係です。

伊賀上野城の巨大石垣は西側。

大阪城の巨大石垣は東側です。

大阪城天守閣も、両城の石垣が東西から向かい合う位置関係にあることを紹介しています。

高虎が伊賀上野城を改修した時期には、大坂の豊臣氏への備えという軍事的な意味がありました。

その後、豊臣氏が滅亡すると、高虎は今度は徳川幕府側から新しい大坂城の設計を任されます。

豊臣方に備える伊賀上野城を造った人物が、のちに徳川大坂城そのものを設計する。

この流れを知ると、高虎が豊臣政権と徳川政権の両方で築城能力を高く評価されていたことがよく分かります。

豊臣大坂城から37年間で石垣技術は大きく進化した

現在の大阪城には、地下に豊臣時代の石垣も残っています。

豊臣秀吉が大坂城築城を開始したのは1583年。

一方、徳川大坂城の再築が始まったのは1620年です。

その間は約37年しかありません。

ところが石垣を見ると、大きな技術差があります。

豊臣期の石垣では自然石に近い石材を利用した部分が多いのに対し、徳川期には石を加工する技術が進みました。

大阪城天守閣では石垣技術を、

  • 野面積み:自然石を生かして積む
  • 打ち込みはぎ:石同士の隙間を減らすよう加工する
  • 切り込みはぎ:隙間がほぼなくなるまで石を成形する
  • 算木積み:石垣の隅を直方体の石で強化する

と紹介しています。

高虎が活躍したのは、まさに石垣技術が急速に高度化していた時代でした。

城造りの経験を各地で積みながら、発達した石垣技術を巨大な城郭設計へ取り入れていったことが、高虎が「築城の名手」と呼ばれる理由の一つです。

高虎は20余りの城の築城・改修に関わった

藤堂高虎は、1つの城だけを造った人物ではありません。

津市によると、高虎が縄張や普請に関わった城は全国20余とされています。

代表的なものには、

  • 宇和島城
  • 今治城
  • 膳所城
  • 江戸城
  • 丹波篠山城
  • 丹波亀山城
  • 伊賀上野城
  • 津城
  • 大坂城

などがあります。

特に徳川家康からの信頼は厚く、江戸城をはじめ幕府にとって重要な城郭工事を繰り返し任されました。

高虎の強みは、天守の見た目を美しくすることだけではありません。

石垣、堀、曲輪、城門をどう配置すれば城全体を守れるのか。

さらに周囲に城下町をどのように配置するのか。

城を巨大な一つのシステムとして設計できることが、高虎の築城術の特徴でした。

2026年9月23日まで特別展「高虎と上野城」を開催

今回の「日本最強の城スペシャル」の放送時期に合わせるように、伊賀市では藤堂高虎を深掘りできる企画が開催されています。

特別展「高虎と上野城」

  • 開催期間:2026年9月16日~9月23日
  • 時間:9時~17時
  • 会場:史跡旧崇広堂
  • 料金:無料

展示では、藤堂高虎所用と伝えられる三重県指定文化財「唐冠形兜」のほか、「伊賀上野城下絵図」や上野城の建物の設計図などが紹介されます。

番組放送日は9月21日なので、放送を見て高虎の城造りに興味を持った場合でも、9月23日までなら現地の特別展を見ることができます。

伊賀上野城の高石垣と合わせて巡れば、高虎がどのように城と城下町を造ったのかを立体的に理解できるタイミングです。

まとめ

藤堂高虎の高石垣は、巨大な石をただ高く積み上げたものではありません。

加工した石材を精度よく積み、石垣の角を強化し、その前面には広い堀を配置する。さらに曲輪や城門まで含めて敵が中心部へ近づきにくい構造をつくるのが、高虎流の城造りでした。

伊賀上野城には約30mの高石垣が現存し、高虎時代のスケールを現在も体感できます。

一方、現在の大阪城は豊臣秀吉の城をそのまま残したものではなく、徳川幕府が再築した城です。その基本設計を任されたのが高虎で、本丸東側には約32mという巨大な高石垣が造られました。

豊臣秀長・秀吉のもとで成長した武将が、やがて徳川家康・秀忠から天下普請の城造りを任される存在になる。

伊賀上野城と大阪城の巨大石垣は、藤堂高虎が戦国から江戸へ移り変わる時代の中で磨き上げた築城技術を今に伝えています。

参考リンク


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