新聞記者だった夫婦が沖縄の壕を掘り続けるまで
2026年9月7日放送の『NNNドキュメント’26「600通の謝罪〜沖縄 掘り起こす 生きた証し〜」』では、沖縄戦で戦死した兵士の遺骨を探し、伊東孝一大隊長に残された手紙を家族へ返している浜田哲二さんと浜田律子さん夫妻が登場します。
2人とも沖縄出身ではなく、戦没者の遺族でもありません。哲二さんは元朝日新聞社カメラマン、律子さんは元読売新聞記者です。
では、なぜ青森県で暮らす元新聞記者夫妻が、25年以上も沖縄へ通い続けているのでしょうか。その始まりをたどると、沖縄で60年間遺骨を集め続けた国吉勇さんとの出会いに行き着きます。
この記事でわかること
- 浜田哲二さんと妻・律子さんの経歴
- 夫妻が沖縄で遺骨収集を始めたきっかけ
- 国吉勇さんから受けた言葉と活動の変化
- 遺骨・遺留品・356通の手紙を家族へ戻す現在の活動
浜田哲二さん・律子さん夫妻の経歴
浜田哲二さんは1962年、高知県生まれ。
朝日新聞社でカメラマンとして働き、海外の紛争地なども取材してきました。2010年に早期退職し、現在は青森県深浦町に暮らしながらフリーランスで活動しています。公益社団法人日本写真家協会の会員でもあります。
妻の浜田律子さんは1964年、岡山県生まれ。
読売新聞大阪本社で記者を務め、1993年に結婚を機に退職。その後も環境分野などの記事を書きながら、哲二さんとともに活動してきました。
新聞社は朝日と読売という別々の会社ですが、現在は夫婦で同じ沖縄戦の取材と遺骨収集を続けています。
沖縄との縁を作った遺骨収集家・国吉勇さん
夫妻の人生を大きく変えた人物が、沖縄の遺骨収集家国吉勇さんです。
国吉さんは自身も6歳で沖縄戦を経験し、祖母や母、兄、弟、めいの5人を戦争で失っています。
高校生のころから遺骨収集を始め、その活動は約60年に及びました。収集した遺骨は約3800柱に上り、兵士の万年筆や水筒などの遺留品も保存・返還してきた人物です。
浜田さんが国吉さんと出会ったのは、新聞記者として沖縄を取材していた時でした。
当初の浜田さんは「取材する側」です。
ところが国吉さんから、節目の年だけ沖縄へ来て報道して帰るのではなく、足元に眠っている遺骨を一柱でも掘ってみたらどうかという趣旨の言葉を投げかけられます。
取材対象だった沖縄戦が、自分自身が手を動かして向き合う問題に変わった瞬間でした。
「見る側」から「掘る側」へ変わった
哲二さんは海外の戦地も取材してきました。
それでも、沖縄の地面から細かく砕かれた人骨が次々と出てくる光景には大きな衝撃を受けたとされています。
沖縄テレビの取材によれば、夫妻が遺骨収集を始めたころは、骨と石の区別さえつかなかったそうです。
そこから経験を積み、遺骨だけでなく周囲に残る遺留品も細かく調べるようになりました。
万年筆、水筒、飯ごう、印鑑、認識票。
錆びたり焼けたりした品でも、名前の一文字が読めれば戦没者の身元へ近づくことがあります。
浜田夫妻の活動が特徴的なのは、掘り出して終わりではないことです。
遺留品に名前があれば家族まで探す
国吉さんが長年集めてきた遺留品には、名前が刻まれたものも残されていました。
夫妻はそれらを調査し、持ち主を割り出し、遺族を探します。
2022年の沖縄テレビの取材では、国吉さんの資料館にあった印鑑や万年筆、水筒、飯ごうなどを調べ、約50点から名前を確認しています。
どれほど傷んだ品でも、遺族にとっては父や兄、祖父が実際に沖縄へ持って行った最後の持ち物かもしれません。
新聞記者として培った「名前から人を追う」力が、ここでも生かされています。
2015年の認識票から伊東孝一大隊長へつながった
現在の『600通の謝罪』につながる大きな転機が2015年にありました。
沖縄の現場で、旧日本軍歩兵第32連隊の兵士の認識票が見つかったのです。
身元を追う中で夫妻がたどり着いたのが、同連隊第1大隊を率いていた伊東孝一さんでした。
伊東さんは沖縄戦で約1000人の部下の9割を失いながら生還した元大隊長です。
戦後、約600人の遺族へ詫び状を送り、その返信356通を70年以上にわたって保存していました。
浜田夫妻はその存在を知り、伊東さんから手紙を託されます。
遺骨を「故郷へ帰す」という活動が、今度は手紙を「書いた家へ帰す」活動へ広がりました。
「みらいを紡ぐボランティア」で学生も活動
夫妻は「みらいを紡ぐボランティア」を運営しています。
活動には高校生や大学生も加わり、伊東さんに届いた356通の手紙を読み解く作業にも取り組みました。
終戦直後の文章には古い漢字や候文が使われているため、読むことそのものが簡単ではありません。
手紙を読み、戦没者を調べ、70年以上前の住所から現在の親族へたどり着く。そして返還時には、若い世代が遺族と一緒に慰霊することもあります。
遺骨収集だけでなく、沖縄戦を次の世代へ伝える活動にもなっています。
青森と沖縄を行き来する生活
浜田夫妻の生活拠点は青森県深浦町です。
哲二さんが2010年に新聞社を退職してからは、毎年およそ2カ月を沖縄での活動に充て、それ以外の時期は青森から兵士の遺族を探す調査を続けてきました。
つまり沖縄へ行っている期間だけが遺骨収集活動ではありません。
古い名簿、住所、遺留品、手紙から「この人は誰なのか」「家族は今どこにいるのか」を追う時間の方が長いケースもあります。
夫妻自身のサイトでも、白神山地での暮らしと沖縄戦の活動という、一見まったく違う2つの日常が記録されています。
遺骨が見つかっても家族へ戻れるとは限らない
浜田夫妻が繰り返し訴えているのがDNA鑑定です。
遺骨を発見しても、誰なのかが分からなければ家族へ返すことはできません。
2025年3月末時点で、国のDNA鑑定によって遺族へ戻ることができた沖縄戦の遺骨は6柱にとどまっていました。
2020~2021年に夫妻が活動した糸満市照屋と国吉の壕では12人分の遺骨が掘り出され、その中には子どもや成人女性の遺骨も含まれていました。
戦場にいたのは兵士だけではなかったことが、地中から出てきた遺骨そのものによって示されています。
沖縄県の文化財資料にも浜田さんの活動が記録されている
遺骨収集というと個人が自由に壕を掘っているようなイメージを持つかもしれませんが、実際には文化財や不発弾なども関わる慎重な作業です。
沖縄県の文化財関係資料には、糸満市の「照屋グスク内 第24師団構築壕」について、「みらいを紡ぐボランティア 事務局 浜田哲二」を工事主体とする遺骨収集が記録されています。県の回答は「慎重工事」とされています。
20年以上続けてきた活動が、単なる個人的な探索ではなく、地域や行政とも関わりながら進められてきたことが分かります。
2025年には夫妻の活動そのものがドキュメンタリーに
浜田夫妻は今回初めてテレビで取り上げられるわけではありません。
沖縄テレビは2025年に『壕のおくり人 沖縄戦80年・遺骨収集夫婦の記録』を制作。25年間活動を続ける夫妻を追いました。
同作品はその後、放送批評懇談会のギャラクシー賞上期・テレビ部門奨励賞にも選ばれています。
そして2026年の『NNNドキュメント’26』では、遺骨収集に加えて356通の手紙を遺族へ戻す活動が大きな軸になります。
新聞記者だった2人が今も「取材」を続けていると考えると、その活動が分かりやすくなります。
ただし取材相手は、目の前にいる人だけではありません。
地中の骨片、錆びた水筒、80年前の手紙から、一人の人生を掘り起こしているのです。
実用情報 浜田夫妻の活動を詳しく知るには
夫妻の活動は「みらいを紡ぐボランティア」の公式サイトで確認できます。
過去の遺骨収集や遺留品返還、伊東孝一大隊長の356通の手紙を遺族へ届けた記録などが残されています。
書籍では、2024年刊行の『ずっと、ずっと帰りを待っていました』が伊東大隊長と遺族の往復書簡を中心に扱っています。
さらに2025年刊行の『80年越しの帰還兵―沖縄・遺骨収集の現場から―』では、遺骨や遺留品から戦没者を特定し、家族へ返す夫妻の活動そのものを深く知ることができます。価格はいずれも税込1,760円です。
まとめ
浜田哲二さんは元朝日新聞社カメラマン、妻の律子さんは元読売新聞記者です。
沖縄戦の遺族でも沖縄出身でもない2人が遺骨収集を始めたきっかけは、約30年前に出会った遺骨収集家・国吉勇さんでした。
国吉さんの言葉をきっかけに「取材する側」から「自分たちで掘る側」へ移り、活動は25年以上続いています。
さらに遺留品に名前があれば遺族を探し、伊東孝一大隊長から託された356通の手紙も一通ずつ家族へ返しています。
『NNNドキュメント’26「600通の謝罪」』で描かれる浜田夫妻の仕事は、遺骨を掘ることだけではありません。
地中や古い手紙の中に埋もれていた「その人が確かに生きていた証し」を見つけ、名前と家族をもう一度つなぐこと。それが夫妻が続けている活動の中心です。
参考リンク
フジテレビ『壕のおくり人 沖縄戦80年・遺骨収集夫婦の記録』
気になる生活ナビをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。


コメント