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竹中半兵衛の菩提山城|巨大堀切・竪堀と山上御殿跡、登山ルート【日本最強の城スペシャル】

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竹中半兵衛の菩提山城は、土の防御施設と山上御殿が共存した西濃最大級の山城

2026年9月21日放送のNHK総合「日本最強の城スペシャル あなたも絶対行きたくなる! 豊臣軍団の城」では、豊臣秀吉を支えた名参謀・竹中半兵衛ゆかりの山城が登場します。

その城が、岐阜県垂井町の菩提山城(ぼだいさんじょう)です。石垣を高く積んだ近世城郭とはまったく異なり、山そのものを削り、堀切や竪堀、切岸などを組み合わせて敵の動きを封じる戦国の山城。さらに近年の発掘では、山頂部に竹中氏の時代とみられる御殿規模の建物跡まで確認され、城の姿が大きく具体化してきました。

この記事でわかること

  • 菩提山城の場所と登山ルート
  • 巨大堀切・竪堀・切岸など山城の防御施設
  • 2026年公表の発掘調査で判明した山上御殿跡
  • 竹中半兵衛と菩提山城の歴史、現在の見学注意点

菩提山城の場所・登山ルートと現在の立入り制限

出典:垂井町公式「菩提山城跡ハイキング」

菩提山城跡があるのは、岐阜県不破郡垂井町岩手。美濃と近江の境に近い菩提山の山頂部に築かれた山城です。

垂井町が公開しているハイキングコースは4コースあり、登山口から山頂までの距離はおよそ1.3km~2.0km。山麓から発掘現場のある山上までは徒歩約1時間と案内されています。

主な登山口は次の通りです。

  • 菩提入口:山頂まで約1,350m
  • 山の神入口:山頂まで約1,310m
  • 大手道入口:山頂まで約1,950m
  • 御茶屋入口:山頂まで約2,036m

城跡だけを見るのではなく、竹中半兵衛の墓がある禅幢寺など、山麓のゆかりの地と組み合わせて歩けるのも特徴です。

ただし、2026年9月1日から2027年1月29日まで発掘調査に伴う一部区域の立入り制限が実施されています。主郭入口付近の虎口では、調査区域の北側に迂回路が設けられています。城跡全体が閉鎖されているわけではありませんが、赤色で指定された調査区域には入れません。

巨大堀切・竪堀・切岸が敵の動きを止める

菩提山城の面白さは、天守や巨大な石垣ではなく、山の地形そのものが防御装置になっていることです。

城の中心部には本曲輪、二の曲輪、三の曲輪、台所曲輪などが置かれ、その周囲には2つの大堀切、多数の竪堀や横堀、切岸、土橋、虎口などが複雑に配置されています。石塁ではなく土塁を中心に構成されている点も大きな特徴です。

特に山城らしさが分かりやすいのが「堀切」です。

堀切とは尾根を横方向に掘り切り、尾根伝いに接近してくる敵の進路を寸断する施設。自然につながっている山の尾根を人工的に断ち切ることで、攻め手は一度急斜面へ下り、再び登らなければなりません。

「竪堀」は山の斜面を縦方向に掘った溝です。敵が斜面を横方向へ移動することを妨げ、進める場所を限定します。菩提山城には竪堀を複数並べた畝状竪堀も残り、3条が確認されています。

さらに「切岸」は、曲輪の周囲の斜面を人工的に削り、急な崖のようにする防御施設です。

2026年に公表された発掘成果では、主郭の建物跡と大規模な切岸が同じ時期に造られていたことも確認されました。つまり山頂には生活・居住に使う建物がある一方、そのすぐ外側には敵を寄せつけない急斜面が存在していたことになります。

2026年の発掘で竹中半兵衛時代の山上御殿の規模が判明

菩提山城では垂井町教育委員会が国史跡指定を目指して総合調査を進めています。

大きな転機になったのが2024年度から続く発掘調査です。2024年には山頂の主郭から礎石建物を伴う居住施設、いわゆる山上御殿跡が確認されました。

さらに2025年9月から12月に行われた調査では、その御殿の規模が拡大。

確認された建物は、現時点で南北6間、東西4間に加え、南側と西側に半間の庇を持つ構造でした。別の建物とみられる礎石も見つかっており、主郭には時期の異なる2つの礎石建物が存在した可能性が高まっています。

これまで菩提山城は、戦いの際に籠城する「詰城」としてのイメージが強い城でした。

しかし山上から建物跡や生活に関係する遺物が見つかったことで、単なる非常時の軍事施設ではなく、一定の居住機能を備えた城だった姿が浮かび上がっています。

約400点の遺物が示す山頂での暮らし

2025年度の発掘では、造成土などから約400点の遺物が出土しました。

確認されたものには、

  • かわらけ
  • 天目茶碗
  • 擂鉢
  • 瀬戸美濃灰釉皿
  • 中国産の染付
  • 青磁
  • 白磁
  • 碁石
  • 刀子
  • 釘
  • 古銭

などがあります。非常時に兵が籠もるだけの場所とは少し違う姿が見えてきます。

2024年度の調査でも中国・明代の華南三彩などが出土しており、垂井町教育委員会は山上で茶の湯が行われていた可能性にも触れています。

「軍師・竹中半兵衛の城」という名前だけでなく、実際に人が滞在し、器を使い、生活していた戦国の空間へと菩提山城のイメージが変わり始めています。

菩提山城はもともと竹中氏が築いた城ではなかった

菩提山城の歴史は竹中半兵衛から始まったわけではありません。

現存する史料では1544年にはすでに菩提山城の存在が確認でき、当初はこの地域を本拠とした岩手氏が城を管理していたとされています。

1558年、竹中半兵衛の父・竹中重元と半兵衛親子が岩手氏を追放。その翌年の1559年には竹中氏によって菩提山城が再整備されました。

父・重元が亡くなると半兵衛が家督を継承。

半兵衛はその後、羽柴秀吉のもとで軍師として知られる存在となり、1579年、播磨の三木城攻めの陣中で亡くなりました。

その後は息子の重門らへと受け継がれ、江戸時代に入ってから山上の城としての役割を終えていきます。

「境目の城」だから西側の守りが強かった

菩提山城を理解するうえで重要なのが、その立地です。

ここは美濃と近江の境界に近く、東西を結ぶ交通の要衝でした。垂井町の調査では、城の西側の尾根筋に長大な堀切や畝状竪堀が配置されるなど、近江側を強く意識した構造が確認されています。

山城は、ただ高い場所へ建てれば強くなるわけではありません。

「敵がどこから来るのか」を想定し、尾根を切り、斜面を削り、移動できる方向を絞り込む必要があります。

菩提山城では、その設計思想が今も地形として残っています。石垣や建物が失われても、山を歩くと戦国武将が作り上げた防御線そのものを体感できるのが、この城の大きな魅力です。

菩提山城の御城印は岩手地区まちづくりセンターで入手できる

登城記念の菩提山城御城印も用意されています。

  • 販売場所:岩手地区まちづくりセンター
  • 価格:300円
  • 発行:竹中半兵衛重治公顕彰会

城跡を登ったあとに、竹中氏陣屋跡や禅幢寺など半兵衛ゆかりの場所を巡るコースにもつなげられます。

まとめ

竹中半兵衛ゆかりの菩提山城は、派手な天守を眺める城ではありません。

山中に残る巨大な堀切、竪堀、切岸、土橋、虎口を歩きながら、「敵をどこへ進ませ、どこで止めるか」という戦国時代の城造りを体感する場所です。

さらに近年の発掘によって、主郭には竹中氏の時代とみられる山上御殿が存在し、防御施設と居住施設が共存していたことまで分かってきました。2026年現在も調査が続いており、竹中半兵衛の城の姿が少しずつ具体化しています。

「日本最強の城スペシャル」で城の仕掛けを知ってから現地を歩けば、ただの山の斜面や窪みに見えていた場所が、敵を止めるために計算された防御施設として見えてくるはずです。

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